ただの主婦であった。
今でもただの主婦であると思っている。
が、しかし「NPO北海道ネウボラ」という市民活動団体の代表でもある。
北海道のネウボラを背負ってしまったが、勝手に名乗ってみただけなのである。
「代表」なんて仰々しい肩書がついてしまったが、子育てしながらの生活は何ら変わりないものであって、団体の代表を始めたといっても、現在の実感としては180°も人生が変化したものではない。
そもそも、「ただの主婦」とは何だろうか。
様々な活動をする団体の代表の紹介の中に、「ただの主婦」という言葉を目にすることもまれにある。
「主婦」の言葉をを辞典でひいてみた。
「一家の家事の切り盛りをする女性。」
とあった。
出産・授乳という、身体機能から派生した性役割分担に期待された家庭内役割の責任を負い、遂行する女性を表す言葉であるようだ。
一家の家事の一切を担って、全ての家族のマネジメントまで行う存在が主婦なのである。
なんとなしに使っている言葉であったが、主婦とは家庭において最大限の責務を担う重役ということなのであろう。
そんなすごい役割を持つ「主婦」の言葉に「ただの」をつけるのであるから、日本の文化はなんと奥ゆかしいことであろう。謙遜の美徳文化がここにある。
結婚したのは、リベンジ就職したばかりの年の秋のことであった。
結婚した当初は、社内SEという仕事を正社員でしていた。
育児休業を取得したが、ワンオペ育児であった。
赤ちゃんを手に抱いてみて、幾日か暮らしてみて、初めてわかった。
どう考えても、これまでと同じような正社員勤務は無理。
2005年の就職は就職氷河期で希望の仕事が選べなかったためのリベンジ就職だった。
人生二度目の就職活動で手にした望む職種の就職だった。
私が卒業後初めて就職したのは、2000年問題が終息した頃の3月であった。
そもそもSE職のほとんどない、道内地方都市での地元就職であった。
望んでいた仕事とは違う事務のポジションで入社したが、結局は社内のシステム全般の管理維持に加えて新規導入、外注管理、自社開発へと、必要にせまられていくうち、社内SEという職務に自然に変わっていった。
それでもやはり、地方であるがゆえの仕事のレベルに満足できないことと、当時爆発的に普及し始めたインターネットとデータベースの技術を学ぶべく、2003年に2年間の専門学校へ入学して情報工学学士を取得、2005年にまた就職したのだった。せっかくリベンジしたのに・・・。でも、ワンオペ育児で、復職は無理。
だけど・・・さらなるリベンジの機会はまたいつでもある!!
いつでも、望む道は切り開ける!という楽観的な性格であったので、ようやく自己実現しかけた正社員の仕事はいさぎよくあきらめて、融通の利くパートでの自己実現を求めて退職した。
今現在長女は小学校5年生、その後生まれた小学校2年生の息子もいる。
団体を始めたのは2015年12月。
長女の妊娠からほぼ10年経つかといった時期だった。
国立高専卒だったので、職業訓練も含むような教育も男子と等しく受けてきた。
育児休暇後は、当然復職して子育てしながら男女平等の上で働くものと思っていた。
子どもという存在を有したその時から、私の思い描いていた人生は一変してしまった。
きっと「子どもを持った」という、このときに、私の人生は180°変わってしまったのである。
子どもという存在を中心にした生活になるとは思ってもいなかった。
子どもという存在がどう成長するものなのかも知らなかった。
子どもを持つということがリスクになるとは思ってもみなかった。
子どもを持つことで仕事ができなくなるとは思ってもいなかった。
子どもを持った時点で、人の人生という大きなものを背負った主婦となってしまった。
一家を切り盛りするという大変重たい負担がのしかかってくるのである。
これまでと同じには働けないのが今の日本なのである。
子どもの存在を出産してみるまで、そんな状況に自分が陥ると理解できないのが今の日本なのである。
私は「超バカ」が頭につくほど真面目だったので、超バカ真面目に10年もの長い期間、主婦を熱心に演じてしまったのだ。
しかも共働きで。
それでも男女は平等なので、いつか、また望む仕事ができるのだろうと思っていた。
共働きしながら、家事育児の一切を担い、家族のマネジメントもした。
主婦は演じるものであった。素の自分が主体ではなかった。
素の自分は常に脇役であり、陰にかくれていなければならない存在であった。
家庭の切り盛りの成功にあたっては、素の自分というものは排除すべき存在であった。
長女の出産後転職に成功した夫の薄給が上がることを期待していたが、度重なる増税に月給の手取りはこの10年ほぼ変わらなかったため、経済的にちっとも恵まれなかった。
私の方はというと、いつまでたっても正社員の仕事を得ることはできなかった。
でも経済的に仕事はどうしても必要だった。
子育てと家庭とを両立できる条件の非正規を転々と、ダブルワークやトリプルワークもした。
そこで、どんな働き方をしても、非正規労働の主婦の収入にはどうやら制限があるらしいということにも気づいてきた。
北海道という東京の下請けの仕事が多い土地で、知的欲求を満たすような楽しい非正規の仕事はほとんどなかった。
ほしいもの、やりたいこと、すべてあきらめるしかなかった。
やりたいと思う仕事はどんなにチャレンジしても、子どもがいるというだけで門前払いだった。
家庭におけるマネジメントの役割を果たす存在である自分がいつでも主体なのであった。
素の自分が主体でない10年にはほとほと疲れてしまった。
良き母、良き妻を演じてきて、家庭におけるマネジメントも完璧であった。
しかし、頑張れども頑張れども、求められる能力は高まっていく一方、努力は際限なく必要という過酷な仕事であった。
※最初の写真は、一番主婦として完璧であったろう、そして一番暗黒なワンオペだった2011年頃(娘5歳くらい、息子2歳くらい:認可保育園と認可外保育園二箇所に加えて認可外幼児園にも通園の三つ巴時代。徒歩移動で疲れ切ってた頃)。自分が一番最後だったので、この頃の自分の写真はほとんどない。
「超バカ」な私でも団体活動を重ねるうち、ようやくわかってきた。
「理想の母」は幻想である・・・!、と、、
誰かの勝手な理想が押し付けられた幻想が「母」なのである。
それに10年も気付かないで「超バカ」真面目にその責務を担おうとしてきた私は本当に超バカだったらしい。
信じていた日本の男女平等は、大人の社会では男女不平等だった。
いつまでたっても自己実現しない、楽しくもない、うれしくもない生活。
お金がかかる一方、上向かない10年。
楽しいはずだと思っていた子育てが一向に楽しくならない。
自分自身への「理想の母」という目に見えない真綿で自分の首を絞め続ける生活にどんどん追いつめられていった。
きっと、私たち就職氷河期以前であれば、安定した終身雇用制度と安定した昇給制度に守られ、ちょっとした数万円の手取りの違いで、違う形の息抜き方法や子どもにとっての何かができたのだろうと思う。
時代は変わってしまった。
就職氷河期、終身雇用の崩壊、順調に昇給しない団塊ジュニア世代、働き盛りの非正規雇用。
長女の出産で貯蓄は使い果たした。
結婚当初、車は2台あったが維持できなくなり自分のものは手放した。
産後のここがどん底であっての再スタートと考えていた。
だけど、健気に頑張れども。
いつまでたっても、自己実現しない、光が見えない、暗黒時代が終わらない。
子ども達の乳幼児期を振り返ると、過去の時間はいつでも真っ黒に見えていた。
そんな中、自分が知らないうちにやっていたことがネウボラの活動だった。
何も知らなかった。
なんだかわからないけどやっているうちにわかってきた。
私がやっていることは社会運動だったと。
やっぱり「超バカ」なので、知らない間に団体活動を始めてしまってたらしい。
普通はもっと計画的に立ち上げするもののよう。
ただの主婦のままであった。
理想の母を捨てただけだった。
素の自分を取り戻りしただけだった。
でも、やっている間にまた人生は若干動き始めて、160°人生は変わっていた。
これから、そんな私の子育てエピソードと社会運動エピソードを紹介していきたいと思う。
おっと、今回は、団体名の「ネウボラ」にも触れていなかった。
本州ではもう少しは有名なんだろうか。
北海道では、こんなに頑張っているものの、今のところそれほどでもない。
でも、ありがたいことに9月の市議会で当団体の掲げる「ネウボラの理念」の文言を取り上げていただいたおかげで、先月の「広報さっぽろ」にこの文言が掲載された。
幾分か、手にした市民にこの言葉は広がったであろうか。
これからの市議会の動きにも期待したい。
次回はそんなネウボラとその活動についてもご紹介したいと思う。
と、まぁ、こんな私です。どうぞよろしく!
NPO北海道ネウボラ 代表 五嶋絵里奈(ごしまえりな)
2017.12.05 Tue
カテゴリー:連続エッセイ / 人生が160°変わった!主婦の社会活動という選択
タグ:子育て・教育