あれから、もう7年が過ぎた、あるいは、まだ7年しか経っていない。
自分自身を振り返ってみても、7年前の3.11東日本大震災とその後の福島第一原子力発電所事故と、
現在をどのように結んでよいのか、立ち止まって考えてみてもどうもぼんやりしている。
いや、ぼんやりしていたどころか、地震大国の日本に54基もの原子力発電所が建設されたことや、
安全神話といった言葉、原発でつくられた大量の電力は立地県ではなく、その近隣の都市へと運ばれ使用されている
といった、それまで意識もしなかった事実に触れ、わたしのなかの何かが壊れ、怒りや悲しみにも触れ、もう
以前には戻れないと思うこともある。
木村さんの新著は、そんな言い訳めいた震災と自分との関わりを、文学作品だけでなく、映画や芸術作品を通じて、
大きく揺さぶる文学論となっている。本書を読み、本書で紹介されている文学作品や映画に触れれば、本書のテーマの
一つである「憑依」とまでは言わなくても、わたしたちのなかに、何か日常の時間の流れを逆撫でる、大きな塊を抱えること
になるだろう。
「文学論」とあるように、本書は、あるテーマにそって文学作品群の技巧や妙味、その内容について、読者を惹きつけるために書かれた、
時評とは違う。たとえば、ジュディス・バトラー『生のあやうさ』や、デリダ『マルクスの亡霊たち』といった哲学書で
論じられた概念を作品に読み込みながら、フィクションであるはずの作品が、わたしたちが世界を見る目をかえてしまうほどの
力をもって迫ってくる。
たとえばわたしは、次のような指摘に、「震災後政治学」といった視座があり得る、いや、あるべきではないかとはっとする。
「ジェンダー論がジェンダーなどという言葉がない時代の作品を読み解く方法であり、クィア理論がゲイやレズビアンという言葉が
ない時代の作品を読み解く方法であり得るように、震災後文学という視座は災厄を読み解く方法になりはしないだろうか」(40)。
木村さんが放射能災と呼ぶ災厄は、はっきりと目に見えるわけではない。そして、その災厄に苦しむ人ほど、もしかしたら、もう見たくもない、
触れたくもないモノかもしれない。あるのにナイ、去ったのに消えナイ、いないはずの人がイル、あり得ないことがオコル。木村さんが論じる小説
で起こっていることは、実際にわたしたちが経験していることではないか。
第一章「震災後文学とマイノリティ」から、多和田葉子さんの作品、食の記憶、フクシマの経験から、ヒロシマ、ナガサキの記憶の想起へ、そして2015年の映画『野火』『母と暮らせば』や、『シン・ゴジラ』(2016年)へ。最終章は、2016年『東京新聞』が報じた、首都圏避難を想定した当時の首相談話の草案に関する記事から始まっている。桐野夏生『バラカ』が、あり得たかもしれない未来を描いていたことに、わたしたちにとってリアリティとはなにかが問い返される。
本書で「論じられること」は、これだけに尽きない。小説を通じて、わたしたちが生きる過去から、現在、そして未来へと流れる(硬直的な)時間感覚が解かれ、ヴィジュアル効果がない小説だからこそ、描かれるリアルな社会像(第一章で紹介される『ボラード病』)に目を開かれる。とはいえ、本書のすばらしさは、「文学論」でありながら、論じられる作品の一つひとつを読者が読みたく・見たくなるように、紹介されているところだろう。というより、こんな形で、木村さんの文章を「論じること」もはばかれるような、パワフルな筆致で多くの作品を描く木村さんこそが、ストーリーテラーだといってもよいだろう。
「あとがき」で触れられる、海外での日本文学研究と日本におけるそれとの違いも興味深い。本書は木村さんがパリ在住中に公刊されたのだが、震災、とくにフクシマに関しては、現在の日本社会の状況をつぶさには見えない外国に住む人たちのほうが、しっかりと視線を向けているのかもしれない。木村さんは、「ときどき作品にもとづいてしか何かを発言できないことにもどかしさを感じないわけではないが」と漏らしているが(251)、「そんなことは小説にしかできない」(144)という、その小説を読み解く木村さんは、木村さんにしか語れないリアルを伝えてくれている。
本書を読んだ後は、本書で触れられたいくつもの視線にわたしたちは取り憑かれることになるだろう。震災後と震災前、戦後と戦前のあいだを生きる今のわたしたちは。
(岡野八代)
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