山が好きで、月に一度は低い山に登っています。季節によって、天気によって、仲間によって、同じ山でも違うのが楽しいです。少しきつい山だと、ふーふーはーはー言ってあえぎながら辛い思いをしますが、だれに頼まれてきたわけでもない、好きで来ているんだから文句を言うなと、自分に言い聞かせながら登ります。やっとのことで山頂につくと、辛かったことはすっかり忘れて、次はどこにしようか、と考えだすのです。

 空気はいいし、景色もいいし、程よい運動で気分はいいし、言うことはないのですが、ひとつだけ山で気に食わないことがあります。「女坂」と「男坂」です。

 頂上を目指していると、少し地形が複雑だったり、いくつもの峰が入り組んだりしているところで、コースが2つに分かれることがあります。きついけれどまっすぐ登って早くつきそうなコースと、少しなだらかで巻き道をしながら登っていくようなコースです。要するに、傾斜がきつい方と緩やかな方と2つに分かれている場合です。そのきつい方に「男坂」、ゆるやかな方に「女坂」と標識が出ていることが多いのです。

 傾斜がきつい方は厳しい、体力が必要、だから男、緩やかな方は楽だ、体力も要らない、だから女、ということなのでしょうが、それは今では全く当てはまらないことばかりです。山登りをしているのは男も女も同じくらいいますが、今日初めて山に来た男もいるし、30年の登山歴の女もいる、22歳の女もいるし、78歳の男もいる、険しい方を登りたい女もいるし、緩やかな方を登りたい男もいる。山が好きなのは老若男女さまざま、体力もその日その人の体調でさまざま。それを「女は~~」「男は~~」、「女だから~~」「男だから~~」と決めつけることが実情に合わないことは、もうわかりきったことです。

 この呼称に異議を唱えるのは、実情を反映していないからだけではありません。山には子どもも登ります。あまり体力のない男の子も、体力いっぱいの女の子も登ります。元気のいい子は女の子も男の子も「男坂」を登るでしょう。ちょっと体力の弱い男の子は困ります。「あいつは女坂だよ」とからかわれたくなくて、無理をさせられるかもしれません。そうやって、ジェンダーが再生産されるからです。

 「険しいコース」と「緩やかコース」でもいいし、「南坂」「東坂」でもいいのですから、山の中にまで性差を持ち込むのはやめましょう。「女坂」「男坂」は、ジェンダー規範にどっぷりつかっていた昔の人がつけた坂の名前です。それを今でも踏襲しているのはおかしい。山道も整備され、標識も新しくなっています。新しい標識をつけるときは、21世紀の標識にしてください。
 
   円地文子の名作「女坂」は、女にとって極めて過酷な辛く厳しい坂でした。小説の倫は県令の補佐という高位にある夫に、愛人探しを命じられ、その愛人と同じ屋根の下で暮らしながら、耐えて家の実権を握っていく強い女性です。その倫が死の床につく前に、最後に上った坂を円地は「女坂」と名づけました。

 山の「女坂」は、女性の弱さ・無力さを前提とし、背景にしてつけられた呼び方です。同じ「女坂」でも、中身は全く違います。しかし、女にとって不快なことばであることに変わりありません。いまどき「女坂」「男坂」はやめてください。

 たまたま韓国から昔の学生が2人来ていたので、聞いてみました。韓国の山で、険しいコースとなだらかなコースとあるとき、男と女をつけて呼ぶ? いや、そんなこと聞いたことないです、と2人とも断言。

 中国の留学生に、友人の山のガイドさんにも聞いてもらいました。中国の山でそんな呼び方をしませんと、そのガイドさんははっきり答えてくれたそうです。

 どうやら、「女坂」「男坂」は、二分法に性をあてはめたがる日本の悪しき伝統の名残のようです。