中国に女性だけの文字があることをご存じですか。5万字以上もの漢字を持つ中国に、まだほかの文字があったの?とお思いでしょうか。漢字の国中国では今まで、いくつもの文字が作られ消えていきました。有名なのは、11世紀から13世紀にかけて、中国西北部の西夏という国で作られ、使われた西夏文字があります。この文字は王朝の滅亡と共にシルクロードの砂漠に埋もれ果てました。また、絵のような文字が親しみを呼び、デザインとして人気を集めた「トンバ文字」というのもあります。こうした漢字以外の文字の中に、女性が創造し使った文字が湖南省江永県にあるのです。いや、今では「あった」というべきかもしれませんが。
この文字のことを現地では「女書」と言っていますが、日本語の中で書くと「女書」では文字ということがすぐにはわからないので、わたしは「中国女文字」と呼んでいます。この文字が、教育も受けられなかった山間の農村の女性たちによって作られたことに驚嘆し、その女性たちの文字を作ったエネルギーの源を知りたくて、1993年以来20年間、毎年のように現地に通って調査研究してきました。
この文字については、その歴史も創始者もわからないのですが、ざっくりと紹介してみます。まず何艶新さんが書いた文字のサンプルをお見せしましょう。右から縦に書いて行は左へ移ります。どこか漢字に似ているが、漢字とは違うとお思いでしょう。こうした小さくて端正な文字がいいとされてきました。

この文字は湖南省江永県の一部に伝播してきました。むかし、この地方では女性の結びつきがとても強く、少女たちが義理の姉妹関係を結ぶのが流行っていました。その姉妹たちも、成人して結婚で別れるときがきます。その別れを悲しみ嘆いて、歌を作って歌い合いました。その歌も、相手が結婚で遠くの村に行ってしまうと一緒には歌えなくなります。遠く離れた姉妹たちに思いを届ける手段が欲しかった、そのために自分たちで作った文字です。ほしいから自分たちで作ってしまったというところがすごいと思いませんか。現地の女性たちは、男性が野良仕事をしているとき、家で織物・縫物・刺繍などの手仕事-―女紅といいますーーをしました。刺繍が上手な人は尊敬されました。手先の器用な人が多かったのです。そうした手仕事で、三朝書といわれるノートも作りました。写真の左が三朝書で、右はその中のあるぺージです。


娘たちはこの三朝書に女文字で歌を書いて、結婚式の3日後に嫁ぎ先に届けました。嫁いだ娘は、姉妹・叔母さん・従妹などからもらった三朝書を宝物として一生大事にし、結婚後の辛い日々に、それを見て自らを慰めました。
この文字の存在は地元では知られていましたが、言語の学界やテレビの世界に知られるようになったのは1980年代初めのことです。そして、90年代初頭までは、娘時代にこの文字を姉妹の間で実際のコミュニケーション手段として使った人がいました。しかし、中国も1949年の建国以後は、女性も学校教育をうけられるようになり、漢字を習うようになりました。不本意な結婚で仲良しが別れ別れになるというような時代ではなくなり、嘆きを分かち合う必要もなくなりました。ですから、この文字も歴史的使命を終えて消滅寸前の状態にあります。現在では、何艶新さんという、少女時代に祖母から教わったという79歳の女性が、本来の意味の伝承者としてただひとり残っています。
この1月、わたしは5年ぶりに現地を訪ねました。何艶新さんが元気でまだまだきれいな字が書けるので安心しましたが、現地の保存の在りかたに大きなショックを受けました。文字自体が大きく変質してきているのです。

最近の伝承者の文字
県政府は文化遺産として保存し、観光資源として活用しようとしています。そのために5,6人の女性を伝承者として保護しています。何艶新さん以外の人は21世紀になって保存のために習い始めた人たちです。その人たちが、筆で大きな字を書いて、文字の宣伝に努めています。国慶節などのイベントがあるときには赤い字で大きなスローガンを書いたりします。書道としても盛んに書かれています。大きな紙に毛沢東の詩を書いて売ったりしています。こうして人に見せて伝えることが伝承であり保存だと考えています。一方で、何艶新さんは、祖母は悲しい文字だと言って泣きながら女書を書いていた、大きな字は書かなかった、と言って、今の政府の派手な宣伝に文字を使うことに批判的です。政府の意図をくんで積極的に大きな文字を書く人は重用されていますが、何艶新さんは冷遇されています。
県や新しい伝承者は、形だけ残ればそれでいい、そのために人目を引くことをするという考え方、何艶新さんは文字の本質を伝えなければ保存ではないという考え方です。私としては何艶新さんの方が正しいと思いますが、正しいものより、力のある者がまかり通る世の中では、何艶新さんは分が悪いです。そうであっても彼女には小さな端正な文字を書き続けてほしいと心から願って帰ってきたところです。
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