1月25日一橋大学での公開レクチャーのテーマは「うろたえる男たち」。男がうろたえる、心躍る言い回しである。実は、お話が始まる前から私の心の中では拍手喝采である。それは、常日頃男がうろたえる様を見たいと私が思っているからであり、厳然たる男社会の日本で男がうろたえることはそうそう無いからである。その日本社会で男がうろたえている…こんな愉快なことがあるだろうか。さらにテーマは「いかに応えてきたか/応えるべきか」と続く。
早速「うろたえる」を辞書で引いてみた。「思いがけない事に驚き、どうすればよいかが分からず、まごつくこと」とある。男が「思いがけないこと」に「まごつ」いているのである。痛快。
この「思いがけないこと」とは(痴漢が犯罪とみなされ)被害者である女性がそれを告発することであり、それに付随して発生すると男が考える「痴漢の冤罪」リスクのことである。痴漢の冤罪被害を声高に訴える男たち、そこに垣間見える「男」を平山さんはこれまでの男性性についての理論を手掛かりに容赦なく追い詰めていく。冤罪リスクのリアリティがどのように構成され、なぜ男たちが冤罪リスクを訴えなければいけないのか、を一つ一つ外堀を埋めながら緻密に考えていく。
まず、平山さんはHegemonic Masculinity(HM):覇権的男性性の解剖から取り掛かる。そして基本に立ち返って、そもそもこの言葉・概念が提案された本来の目的を果たせない使い方をされていることを導く。不平等なジェンダー関係を正当化してしまい、その相対性が対として持ち出される女性像によって変わってしまう、というこの使われ方の弱点を指摘する。その言葉が使われる文脈の中で強調されている「女性とは」「男性とは」を吟味せずには、ジェンダーの矛盾や不平等は語れないのだ、と。様々にあり得る「女性性」「男性性」の中で、何が持ち出され、それによって何が「仕方ない」(正当化)に結び付けられてしまうのか?
そして、これをわきまえた上で男が「冤罪リスク」という時の現実の構成のされ方をHMの枠組みで考えていく。いかなる文脈なのか?、そこで際立たされている女性像は何か(何が見えなくされているのか)?そして、そこで際立たされた女性像によって男性がいかなる存在として立ち現れてくるのか?、と。鮮やかな手法が、見事だ。
1988年11月4日に起こった「地下鉄御堂筋線事件」を切っ掛けに1994年に「痴漢は犯罪です」というポスターが駅構内に貼られ始めたが、それまで痴漢は犯罪とは言われず、女性たちがその被害者であることも「語るべきではない」ことだった。「犯罪」はおろか「ありふれたこと」だったのである。このポスターを目にした一人は「ついに、ここまで来たか」と感慨深かったそうだが、「痴漢は犯罪」になったら、今度は「冤罪リスク」の登場である。女性たちが「痴漢」被害を訴えることを、男たちは手をこまねいて見逃したりはしなかったのである。
女性たちは被害を訴えたが、瞬時にそれは「聞き届けられる」ことにすり替えられた。「冤罪リスク」や「ハニートラップ」を男たちが声高に拡散し、実際には女性たちの痴漢被害が社会に聞き届けられないことが(男たちの思惑通りに?)女性が自ら被害を訴えることを抑制させる力(逆向きのエネルギー)になってしまった、と平山さんは説き進める。
ではなぜ、男たちは冤罪リスクを訴えなければいけないのか?そこには、加害者と名指されかねないことへの神経症的恐怖と責任を果たせないことへの恐怖があり、それが容易に攻撃へと変わる。これまで常に「女の上にいる」と社会から下駄を履かせて貰って来た男たちが初めて感じた恐怖、そしてそこから生まれた被害者への攻撃の始まりである。だが「被害者への攻撃」など、それ自体が犯罪ではないのか?
その攻撃の手段が、「冤罪被害の訴え」なのである。男性たちは本当に責任の取り方が分からないのか、加害者から降りたいと思っているのか、と平山さんは畳み掛ける。
冤罪被害を妄想することと(性暴力)被害当事者であることの間には、天と地ほどの差がある。これまで一体どれだけの、夥しい数の女性たちが「魂の殺人」によって自己の尊厳を奪われ、苦しめられてきたことか。一次的な被害だけではない。被害女性たちは、何度も繰り返される社会からの「セカンドレイプ」までを受けさせられてきたのだ。堪忍袋の緒が切れた時、「#MeToo」は始まった。
加害者に間違われることは仕事や家庭生活に影響を及ぼし、辛く苦しい…人生そのものがめちゃくちゃになってしまう…と冤罪被害(妄想)を男性が訴える時、そこにあるのは「自分」だけだ。実際に被害を受けた女性への配慮や、自らの「男というもの」についての考察は皆無である。実在する被害者には一片の配慮も無く、今ありもしない被害を男たちは妄想しまくる。車内の痴漢被害について、被害を受けていない女性たちが「痴漢被害に遭ったら…」と言い募ったことがあっただろうか?
多くの男性たちが「やりたい放題、お構いなし」で続けてきた性犯罪は不問に付して、実害を受けてもいない冤罪を妄想し、言い募る…ここにある「男性性」もまた、「オレ様自己チュー」以外の何物でもない。問題にすべきは冤罪被害ではなく、この、手の付けられない「オレ様自己チュー」なのではないのか?
なぜ、漸く声を挙げ始めた女性たちを攻撃しなければならないのか?なぜ女性たちの被害の訴えへの応答が加害者の他者化とならずに「冤罪被害」の訴えになり、攻撃の手段になるのか?このねじれ、歪みにこそ、男性性の核心を突くものがあるに違いない…と、平山さんは直感しているように見える。
私たちが抱えているモヤモヤを一掃し、きっちりとした言葉で理詰めに「男たちの冤罪被害」妄想を追い詰め、この平山理論がどうフィニッシュするのか…ゾクゾクするほど楽しみである。
※一橋大学ジェンダー社会科学研究センター
CGraSS公開レクチャー・シリーズ 第45回(2019年 1月25日)での講演
講師:平山 亮さん(東京都健康長寿医療センター研究所・研究員)
司会:佐藤文香さん(一橋大学大学院社会学研究科教授)