
天才すぎる親の子どもに生まれた不幸せ
芸能界きっての人気者や実力者同士が結婚する。二人の間に子供が生まれ、長じて親と同じ道を選ぶ。そんなケースで、親を知る世代がその子供を見たとき、往々にして「あれっ」と思うことがある。親の面影があれば「似ているが本物と違うもの」に見えるし、親とまるで似ていなければ「期待と違うもの」に見えてしまう。もしその子供が、同じ道を進みながら、親の偉大さをかみしめるばかりだとしたら、どんな険しい試練となるだろう。
第165回直木賞(2021年の上半期の直木賞)を受賞した澤田瞳子さんの『星落ちて、なお』の主人公は、「この世に描けぬものはなし」といわれた幕末から明治きっての人気絵師、河鍋暁斎(きょうさい)の娘の「とよ」こと、画家・河鍋暁翠(きょうすい)です。暁斎の娘であり、弟子。葛飾北斎とその娘である絵師、応為(おうい)の関係を連想させますが、はたして「とよ」は、北斎に「美人画では娘にかなわない」と言わしめた応為のような存在だったのか?女子美術学校(現在の女子美術大学)初の女性教授というから経済的にも恵まれた進歩的な女性だったのだろうか?それとも?
物語は明治22年(1889年)の春、河鍋暁翠の通夜の翌日、主を失った画室の暗い夜から始まります。主人公「とよ」は22歳。5歳から父に絵の手ほどきをうけ、やがて「暁斎の筆にほとんど異なるところがない」と評価される絵師になりながらも、父親はむろん、兄と比べても自分の腕は劣るとコンプレックスを抱いています。
「とよ」は、父親の画業をアシスタントとして支え、父が病に伏してからは介護の担い手を務め、没後は葬式の手配や相続の手続きをし、大勢の弟子たちの行く先を決め、病気がちな妹やぐうたらな弟の世話、少しずつ傾いていく一族の家計など、一切合切をしょいこみます。その姿は、「なんでもっと自分を主張しないの!」と歯がゆくなるほど。
しかし、その内面では、家事を「雑事」と言い捨てて絵に没頭する利己的な兄に猛烈な嫉妬を感じ、女は良妻賢母がよしとされる明治の男女観に疑問を抱き、女子美術学校の生徒たちは江戸の女に比べて「おとなしく引っ込み思案」だとモヤッとし、34歳で結婚したやさしい夫とは絵に集中したいがために別居、シングルマザーとなる道を選ぶ激しい女性でもあるのです。ものすごく我慢強い努力家の女性の内側で、「いい絵を描きたい」欲求がマグマのように湧きあがり、彼女を世の当たり前の枠の外へ、突き動かしていきます。
そんな「とよ」を外側から揺さぶるのが社会の激変。明治維新によって、400年という永きに渡って美術界に君臨した狩野派が、幕府というパトロンを失ってあっさりと失墜。西洋絵画の波がどっと押し寄せ、西洋画のテクニックを取り入れた新しい日本画を描く狩野芳崖、横山大観らが脚光を浴びる中、没後の暁斎は古臭いと忘れられた存在になっていくのです。外から新しい価値観がやってきたとき、驚くほど器用に適用してしまうのが日本の特徴と言われますが、その波に乗れない、乗らない人たちもいます。ITやコロナ禍で自分が働く出版業界の在り方や仕事の方法が激変している今、明治時代の美術界の激動ぶりは切実に感じる部分がありました。
「俺たちは親父の絵から離れられねえ。そのくせあいつを超えられもしない」。
生涯のライバルであった兄が死の間際に言った言葉は強烈です。稀代の天才の子に生まれ、江戸から昭和女性までを生きた女性絵師「とよ」たどり着く先は。ぜひ本でお読みください!
(やすはら・ゆかり 日経BP)
◆書誌データ
書名 :星落ちて、なお
著者名:澤田瞳子
頁数 :321頁
出版社:文藝春秋
定価 :1925円(税込)
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