撮影:望月 孝

 
 昨年12月12日、高良留美子さんが88歳の生涯を静かに閉じられた。その1か月ほど前に娘さんのリトグラフ作家竹内美穂子さんから、自宅療養中の高良さんについて「もう長くないと思う」と伺ったとき、「自宅療養できるならまだだいじょうぶ」と慰めた記憶がある。でも、そのときすでに高良さんは「覚悟」しておられたのだということは、後でわかった。ご逝去のお知らせをいただき、家族葬が終わるまではだれにも知らせないで、というお申し出に「お花だけでも」とささやかな花かごを届けさせていただいたのが、せめてもの弔意であった。

 高良留美子さんと言えば、若くしてH氏賞を授賞された詩人として知られている。しかし、彼女の多面的な思索と世界を見わたす視野のひろさは、とてもこの一言では言い尽くせない。詩人、作家、評論家、女性史家、哲学者、思想家…といくつあげても足りないような気がする。遺著となったのは『見出された縄文の母系制と月の文化』(2021年6月刊)という大著であった。それは、高群逸枝の女性史学を継承しながらさらに人類学や民俗学、考古学、神話学、歴史学、文学などあらゆる分野の業績を「女の文化」の視点から再構築した「高良女性史論」の集大成である。そのまなざしは、縄文時代から現代にいたる縦糸としての歴史認識とともに、アジア・アフリカをふくむ横糸としての世界認識に向けられ、さらにアイヌ、被差別部落、在日朝鮮人などマイノリティとして「差別」された女性たちへの共感をこめた洞察にもつらなっている。
 わたしが高良さんに惹かれたのは、こうした宇宙的な視野と現実の女性問題をむすぶ「女性思想」に出会ったからであった。そしてまた、高良さんが母である高良とみの戦中の言説と行動を「戦争加担」と呼ぶべきかどうかという問題にこだわりながら、日本人が「忘却」しようとしている(あるいはさせられている)「戦争責任」について追究し続けていることと、わたしが平塚らいてう研究者としてやはりらいてうの戦時下の発言を問い、それが戦後の平和思想と運動にどうかかわるかを明らかにしたいと考えてきたこととが重なり合って、意見の違いを含め高良さんと交流してきた。1997年に高良さんが独力で「女性文化賞」(副賞50万円)を創設され、「文化の創造を通して志を発信している女性の文化創造者を励まし、支え、またこれまでのお仕事に感謝する」ことを掲げられたときも、その文化創造とは世に知られた文学者や芸術家だけではなく、無名の女性が営む生活の中から紡ぎ出された人生への洞察や差別・偏見への鋭い批判、平和への思いなどが含みこまれているように感じ、ユニークな人選に敬意を払ってきた。

 じつは、わたしが館長を務める「らいてうの家」も2009年に第13回女性文化賞を受賞している。その年の夏、高良さんは何も言わず、「ちょっと暇ができたから」と一人でやってきて、隣接のホテルに泊まられた。地元の会員たちは、思いがけない訪問客をとれたての野菜やおやきで歓迎し、夜はらいてうの家で高良さんを囲んでおしゃべりした。しばらくしてから賞を「NPO平塚らいてうの会」ではなく「らいてうの家」にくださったのは、高良さんの見識だったと思う。「地域の人びとが協力してらいてうの平和の思いを伝える活動」を評価していただいたことに、今も感謝している。

 その女性文化賞を、20回を迎えた2016年で最終回にするというお知らせをいただいたとき、最後に「この志を継いでくださる方を期待しています」と書かれていたことが、わたしの心をゆさぶった。3日間考え、自分は高良さんの見識や力量には遠く及ばず、年齢的にも同世代だから長くはつづけられないが、、もしどなたか「志を継ぐ」のにふさわしい方が現われるまでの短い間でもよければ、ワンポイントリリーフとして引き受けたい、と申し出てしまったのである。高良さんは「あなたでよかった」とこころよくゆだねてくださった。賞に個人名を付さないのも高良さんらしく、名称もそのまま「第21回」からわたしが出すことになった。高良さんからの要望は、賞の目的に沿うものであることと、どんな組織にも頼らず「ひとりで選ぶ」ということだけであった。「でもね、私はやっぱり女性史が大事だと思うの」と言われたのをおぼえている。それは狭義の女性史を超えて「女の文化」を発信してきた「志」の持ち主に光を、というメッセージだったと思う。わたしは、地べたに足を着けて「自分自身の生」を生き、表現してきた女性たちを探しあてようと覚悟を決めたのだった。2017年に刊行された高良さんのエッセイ集『女性・戦争・アジア』のタイトルが、わたしの女性文化賞の主題になった。

 それから5年経った。わたしは毎年迷い、ためらいながら、高良さんがそうしたように「現場」を歩くことに努め、国内はもとより時には海外にも足を運んで「自分ひとり」で選んできた。これはと思う方に出逢い、「この賞を受け取っていただけますか」と尋ねると、みなさん「自分がもらっていいのですか」と問い返される。そのたびに賞の由来を説明し、納得していただいてきた。
 昨年はコロナ禍もあり、少し予定を早めて10月に発表したのだが、その直後に高良さんは「辞世」の句を詠んでいたことを、亡くなられた後に知った。「行き病めど 生き充ちていま ここに立つ」と書かれたメモには11月7日という日付けが書き込まれていた。死を目前にして高良さんは、自らの「志」として「生き充ちて立つ」という姿勢を発信したのだ。わたしは高良さんが問い続けてきた人間の生と死とそして再生をめぐる深い思索を受けとめ、いつまでできるかわからないがもう少しの間、女性文化賞を受け取ってくださる方に出会う旅を続けたいと思っている。高良さん、今は静かにお休みくださいますことを。


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