もう30年余り前に別れた、もと夫から新刊が送られてきた。八木晃介著『洛中*洛外 いま*むかし』(阿吽社、2022年3月)。2016年9月~2021年12月まで毎日新聞京都版に連載された100回分のコラムをまとめた本だ。京都にまつわる今昔のありようを社会学的視点からとらえて、京都と琉球沖縄、戦争、部落差別、在日コリアン、反原発、学びの街・京都、宗教、文化、そして京都は「花の田舎か」の章で結ぶ。その一つひとつが、私の個人的な思い出と重ねあわせて、つれづれなる思いを蘇らせてくれた。

 たとえば「京都における朝鮮戦争――『京大生 小野君の占領期獄中日記』(京都大学学術出版会、2018年)」の章は、近代中国史研究者の小野信爾先生が、1951年2月、京都・下鴨警察署前で朝鮮戦争反対のビラを配布してGHQに逮捕された20歳の頃のことを記したもの。本書の詳細な解説・改題を書かれた西川祐子さん、おつれあいの小野和子さんが編者なのもうれしい。西川祐子さんの大著『古都の占領』(平凡社、2017年)を、数年前の読書会で、みんなで読み合わせたことも懐かしい思い出の一つ。

 1950年6月25日、朝鮮戦争勃発。小学校1年生だった私は、担任の女の先生が黒板に朝鮮半島の地図を描き、「この地でまた戦争が始まりました」と悲しそうに話されたことを覚えている。1953年7月、38度線で休戦協定が結ばれたものの、今なお南北の平和が訪れたわけではない。
 1959年、中学で仲よしだった髙原愛子さんという女友だちが、卒業後、「大阪を離れるから」と私の家を訪ねてきて、額縁に入ったミレーの「落ち穂拾い」を「お礼に」と手渡してくれたことがあった。「どこへ行くの?」と聞いても何も答えず、そのまま別れたけれど、しばらくたって風の便りに、彼女は北朝鮮帰還事業で家族と共に北へ帰国したという噂を聞いた。だが、その後の彼女の消息は定かではない。

 「周恩来詩碑と日中友好」の章では、京都嵐山の亀山公園にある周恩来元中国国務院総理の詩碑「雨中嵐山」について触れている。
 1972年9月、田中角栄首相は大平正芳外相と共に訪中。周恩来と日中国交正常化交渉を重ねる。懸案となったのは「尖閣諸島」の帰属をめぐる問題だった。田中角栄から、この件を問われた周恩来は、「尖閣諸島のことは話さないでおきましょう」と返したことを、後に、野中弘務(元自民党官房長官・元自民党幹事長)が明らかにしている。
 「雨中嵐山」の詩碑の最後の言葉、「模糊中偶然見着一点光明、真愈覚嬌姸」(模糊の中に一点の光明を見出せば実に楽しい)、事態が曖昧な模糊の中に一点の光明(日中友好)を見出そうとの、周恩来の思いが込められていたのではないかと、著者はこの章を結んでいる。しかしその後、2010年9月、この詩碑が反中国派によりペンキで汚される事件が起きたのだ。
 1972年9月29日の「日中共同声明」調印前夜、毛沢東は周恩来と田中角栄を前にして、「もう喧嘩は済みましたか? 喧嘩をしないと仲良くなれませんよ」と笑顔で二人に語ったという。
 中国語の「開心」とは「うれしい」の意。「わたし」が心を開けば、「他者」もまた心を開く。日本と中国が仲良くなるには・・・ふと、この言葉を、また思い返してみたくなった。(「もう喧嘩は済みましたか?」毛沢東(旅は道草・33

 日中国交正常化を祝って中国から日本にパンダ(カンカンとランラン)がやってきた。3歳の娘を連れて上野動物園にパンダを見に、長い行列に並んだこともあったっけ。テレビのニュースに「ニッチュウ、ニッチュウ」と騒いでいた娘は大学3回生の1990年、中国に1年間、留学する。1989年6月4日の天安門事件の余波を受けて北京大学への留学は叶わず、蘇州大学へ。のんびりした古都・蘇州で、少数民族ミャオ族のアーチーや日系カナダ人でゲイのカーシーと仲良く宿舎で学ぶ。帰国前、娘と二人で北京に向かう。戦中、中国の北京で生まれた私。北京・王府井(ワンフーチン)近く、東単の胡同(フートン)を訪ねたのも、もう30年以上も前のことだ。

 「在日コリアンの集住地域「ウトロ」(宇治市伊勢田町)」の章。1941年、日本政府は、京都軍事飛行場建設のために1300余人の在日朝鮮人を動員。敗戦により工事は中断、何の補償もなく放置され、1988年まで上水道も敷かれないまま、住民たちは助け合いながら暮らしていた。1989年、日産車体から所有権移転された西日本殖産が、住民たちに強制立ち退きを要求。立ち退き反対運動とともに日韓双方の民間人の募金運動が広がり、2010年、ウトロ地区3分の1の土地を買い入れ、強制撤去の危機から脱出。その後、2016年、日本政府も「町づくり事業」の一環として公営住宅を建設。2021年12月、「ヘイトクライム」による倉庫への放火事件があったが、2022年4月30日、ウトロ平和祈念館が、いよいよオープンする。

 1988年春、京都の「女のフェスティバル」に、ウトロのオモニ・ハルモニたちがチマ・チョゴリを着て舞台に立った。家父長制の強い在日社会の中で初めて女たちが「ウトロ」の窮状を自ら訴え出たのだ。それがきっかけとなり、「ウトロを守る会」の田川明子さんを中心に、私も所属する婦人民主クラブ京都から、ささやかな旅費カンパを送り、彼女たちは母国・韓国へと旅立った、「ウトロ」の実情を訴えるために。そして韓国本国でも、日本の過去の戦後処理を捨ててはおけないと、政府や民間人を含む多くの寄付が集まったことが、「ウトロ」の現在につながる。2022年4月30日~5月5日の「ウトロ平和祈念館」オープン企画「マダン劇」や「パンソリ」ミニコンサートが、今から待ち遠しい。

    京都府立植物園の桜

 「洛北・岩倉の宗教・医療風土」の章。平安時代、もののけに憑かれた皇族が療養したとされて以来、精神医療に深くかかわってきた岩倉の地にある「医療法人稲門会いわくら病院」は、精神科の閉鎖病棟を廃止し、地域に開かれた「開放病棟」として知られている。
 1918年当時、東京帝大精神科教授の呉秀三が『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』の中で、「我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生マレタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ」と語った言葉は、「精神病者監護法」(1900年制定)を告発するものだった。座敷牢的な私的監護は戦後、「精神衛生法」(1950年)で廃止されたが、私の子どもの頃は、まだその名残を見ることもあった。
  「私的監護」から「公的管理」に変化したともいえる、今なお続く精神保健・医療施策のもと、世界の精神病床の2割にあたる35万床が日本に、まだあるという、まさに「精神病院大国・日本」なのだ。これは世界の流れに反している。イタリアでは1978年、バザーリア法により、精神病院が廃止されたというのに。

 いわくら病院前院長の崔秀賢さんは、1970年、精神科医として着任。以来、「垣根を取り払い、信頼関係を築くことが症状の改善につながる」との信念から、心の病をもつ人たちを信頼し、社会で生きる希望をつなぐ「開放医療」に40数年間、取り組んできた。
 牧師の息子として、自らの被差別体験も重ねての実践だった。大阪大学医学部在学中、彼は阪大混声合唱団指揮者として、みんなの憧れの君だった。「メサイア」を彼の指揮の下で歌ったこともある。数年前、何十年ぶりにお会いした時も、昔とちっとも変わらず、磊落で、穏やかな崔さんだった。

 「「縁」変革による反差別」の章は、「解放の仏教」を拓いた親鸞について述べている。八木晃介著『親鸞-往還廻向論の社会学』(批評社、2015年)は、少々難解で、またの機会に読むことにするが、仏滅後の「濁悪世」の今、親鸞がもしも生きていたら、今の世をどう思うだろうか。
 「れふし(漁師・漁師)・あき人(商人)、さまざまのものはみな、いし・かはら(瓦)・つぶて(小石)のごとくなるわれらなり」と、親鸞は、被差別民と同じ位置に我が身を置き、「小さくされたもの」の立場を共有すると宣言した、とある。
 親鸞は、29歳の時、比叡山の修行を捨て、聖徳太子ゆかりの京都・六角堂(頂法寺)に籠もり、「夢告」に導かれて69歳の法然のもとを訪ねて浄土門に入る。その六角堂も、「親鸞示寂の地」とされる善法院(現・京都市立御池中学校)も、歩いてすぐのところにある。孫娘が今春6年生で御所南小学校から小中一貫で通うことになる御池中学校前には、「見真大師還化之舊跡」の石碑が建っている。
 「念仏停止」の弾圧(承元の法難)の後、親鸞は、天皇・貴族への異議申し立てにより、僧籍を剥奪され、越後に流されるが、その後、親鸞は生涯「非僧非俗」を貫いて、90歳で京都「洛中」で入滅した。

 京都は「花の田舎」か。京都人は、なぜか京都から外へ出ていこうとしない、たとえ出ていっても、また帰ってくるという。その意味でも京都は「大きな田舎」なのか、とも思う。

 そんな京都に、今年も春がやってきた。東京資本による京都府立植物園周辺の「北山エリア」再開発計画に反対運動をしつつ、植物園や半木(なからぎ)の道を歩いて、穏やかな昼下がり、鴨川沿いの満開の桜並木を散策した。

 春よこい、早くこい、そして世界に春はやってくるのか? ニュースを見るたびに胸が痛む。願わくば、どうか、どの国にも等しく「春が来ますように」と、京都の桜を眺めながら、平和な春の訪れを心から願い、祈る日々が続く。