天安門事件33年目の6月、チャン・イーモウ監督「One Second 永遠の24フレーム」を見に行く。「One Second」は一秒、「24フレーム」とは映画の1秒間は、フィルムのコマが24フレームあることを意味する。

 舞台は1969年、文化大革命のさなかの中国。もうもうと砂塵が舞い上がる砂漠の中を逃亡者の男が一人、歩き続ける。「造反派」の幹部に喧嘩を売って西域の強制労働所に下放されたが、「ニュース映画22号」に、別れた娘が、たった一秒、写っていると知って、「娘を一目見たい」と上映予定の村を目指して脱走してきたのだ。 そしてもう一人、孤児の「リウの娘」は、最初は男の子と思っていたが、実は女の子、弟思いの姉だった。内気で勉強好きな弟のために、壊れてしまった電気スタンドの笠が映画のフィルムでできているのを知り、男よりも先にフィルムを素早く盗んで逃げていく。

 広大な砂漠の中でフィルムを奪い合う二人。だが、もみ合ううちに缶の中からこぼれ出たフィルムは「ニュース22号」ではなく、何も写っていないただのフィルムだった。やがて砂漠を通りかかった車に乗せてもらった二人の、車内での短い会話のやりとりの中から、二人の生きづらい背景が少しずつ見えてくる。

 二人は、ようやくたどり着いた村の映画館で、届いたフィルムが運搬係の不手際で缶ごと地面にばらまかれ、フィルムがドロドロに汚れてしまったことを知る。上映を待ち望んでいた村人たちも、がっかり。その中には逃亡者が探し求めていた「ニュース22号」もあった。急遽、映写技師の命令と指導のもと、フィルムを丁寧に洗浄し、拭き取って乾かし、リールに巻き取る作業を全員総出で協力する。そしてついに「ニュース22号」と文革時代のヒット作「英雄子女」の上映に成功する。

 このシーンはイタリアのシシリア島を舞台にした「ニュー・シネマ・パラダイス」で、映写技師が、カラカラとフィルムを回す音とも重なり、チャン・イーモウの映画への愛が、ひしひしと伝わってくる場面だ。

 なぜチャン・イーモウは、この映画を撮ろうと思ったのか。彼自身、文化大革命で下放され、農民として3年、工場労働者として7年働き、その後、北京電影学院撮影学科に学ぶ。1987年「紅いコーリャン」、1990年「菊豆」、1991年「紅夢」など数々の受賞作の後、1994年、文化大革命を題材にした「活きる」は第48回ヴェネチア国際映画祭で審査員特別グランプリ賞を受賞するも、政治的理由により本国では上映禁止となった。今回の映画も、2019年2月、ベルリン国際映画祭コンペティション部門に選出されたが、開催直前に突如キャンセル。「技術的要因」で上映中止と発表されたという。

 今、中国では映画制作の検閲が厳しくなっているのか。この映画も、「ん? ここは、なんかおかしい」と思うシーンが、いくつかあった。しかし逃亡者も、孤児(リウの娘)も、映写技師も、互いに敵対しつつも、どこか相手を思いやる優しさを忍ばせて、そんな人の心の動きと、あの時代へのチャン・イーモウの思いと、スクリーンいっぱいに広がる壮大な砂漠の映像が、何よりも、この映画を魅力的なものにしている。主役リウの娘を演じるリウ・ハオツンは、「初恋のきた道」のチャン・ツィイーのように、ほんとに初々しい。

 では文化大革命とは一体、何だったのか。「1966年夏から10年間に渡り、繰り広げられた熱狂的な大衆政治運動。毛沢東自らが発動し、「造反有理」(謀叛には道理がある)を口々に叫ぶ紅衛兵たち。指導者の相次ぐ失脚と毛沢東の絶対化により、現代中国の政治、社会に大きな禍根を残して終わった」(朝日新聞出版発行「知恵蔵」中嶋嶺雄・記)とあるが、今なお未解決の謎は残ったままだ。

 毛沢東の後継者と目された林彪が、1971年、謎の飛行機事故で死去。「走資派・実権派」と批判された劉少奇と鄧小平も失脚。「士大夫階級」「読書人」たち知識階級も紅衛兵の攻撃で犠牲となった。しかし1976年1月、周恩来の死、同9月の毛沢東死去の後、1977年8月、中国共産党十一全大会で、華国鋒が「四人組」を粉砕、文化大革命 “勝利”の閉幕を宣言する。さらに鄧小平が「四つの現代化」(工業・農業・国防・科学技術の現代化)を掲げて復活。それ以降、「改革開放」路線のもと、中国は市場経済体制へと邁進してゆく。

 1966年7月、就職を考えていた大学4回生の私。当時、民間企業への入社試験は、すべて「女子不可」だった。女が受けられるのはマスコミと教職のみ。女性記者がいると聞いて大阪読売新聞を受けた。最終面接に残ったのは40人、うち女子2人。面接室入口に名簿が置かれていた。見ると名前の横に「紹介者」欄がある。そこにはなんと中曽根康弘以下、ずらりと政治家の名前が書かれていた。「紹介者なし」は私だけ。

 履歴書で私が「北京生まれ」と知った面接官から、「今、中国で文化大革命が起こっているが、それについてどう思う?」と問われた。「母が、『中国の人たちは自分が納得いかない限り、決して言うことをきかない。夫婦喧嘩も、胡同の中庭に夫と妻が飛び出してきて口角泡を飛ばして言い争い、どっちが正しいかを、みんなに裁定してもらう。だから今の中国の動きは合点がいかない』と言っていました」と答えると、面接官は「ふーん、合点がいかない?」と首を横に傾げた。もちろん試験は落ちた。

 もう一つ、教職試験を受けて高校の倫理社会の教師に合格していた。ところが私は、結婚を心に決めていた男の初任地が千葉に決まり、離ればなれになるのが嫌で、あっさり教職を辞退してしまったのだ。一生、拭えない私の恥。その後、専業主婦となり、20年後に離婚、やっと自分自身に落とし前をつけたのだけれど。

 1977年、姑が病気になり、私が望み、夫を説得して千葉から京都に戻ってきた。義母の看病のため一歩も家を出られない日が続く。その時、読んだのが大塚有章著『未完の旅路』全6巻(三一書房、1960年~1976年)だった。大塚有章は戦前、共産党に入党時、M資金銀行強奪事件で逮捕され、満期10年の服役後、甘粕正彦に誘われて「満映」に勤務する。敗戦後、中国八路軍と行動を共にし、帰国して宝塚に毛沢東思想学院を設立して、毛沢東の大衆路線を若者たちに伝える。姉の秀は河上肇夫人。妹の八重は末川博夫人。妻、英子の遠縁には摂政宮(裕仁)親王の車を狙撃した難波大助がいた。

 本を読み、「この人に会いたい」と、京都に来て1年後の1978年、小学生の娘をつれて宝塚の毛沢東思想学院に出かけたのが初めての外出だった。京都大学・井上清の講演「造反有理」と大塚有章の「大衆路線」のお話を聴く。お目にかかれた1年後の1979年、大塚有章氏は亡くなられた。その時すでに、中国では文化大革命は終わりを告げていた。

 1989年6月4日、「第二次天安門事件」が起こる。1976年1月、周恩来が死去、同4月5日、周恩来を悼んで天安門に結集した学生たちを「四人組」が暴力で排除したのが「第一次天安門事件」だ。1989年、鄧小平政権下、民主化に理解を示していた胡耀邦が急死。彼を追悼する学生や市民が天安門広場に結集、集会を開いて民主化・言論の自由を要求した。だが、鄧小平は戒厳令を敷き、6月4日、軍を動員して学生たちを排除、多数の犠牲者が出たのが「第二次天安門事件」。今年は天安門事件から33年。香港での追悼集会は禁止され、代わりに台湾で追悼集会が開かれた。習近平は天安門事件について「政治的な風波(騒ぎ)」と言及しているという(毎日新聞6月4日付・岡崎英遠)。

 1989年2月、ポーランドでは、ワレサによる「連帯」が公認され、社会主義国家の一党独裁が否定されつつあった。1989年11月9日、ベルリンの壁崩壊。同12月2日~3日、マルタ島沖のクルーズ船上で父・ブッシュとゴルバチョフの米ソ会談が行われた。「ヤルタ」から「マルタ」へと時代は動く。「東西冷戦」は終結し、1991年12月、ソ連崩壊。時代は大きく変わってゆく。

 その後、2001年9月11日、ニューヨーク同時多発テロを契機としてアメリカはアフガニスタン、イラク戦争を始める。2014年、ロシアはプーチン体制下、ウクライナ南部クリミア半島を併合。2022年2月24日に始まるロシアのウクライナ侵攻は、今なお収束のめどは立っていない。中国も習近平の下、巨大経済圏構想「一帯一路」路線を拡大し、新疆ウイグル自治区への弾圧をやめようとはしない。

天安門 1991年


 1991年、蘇州大学へ留学中の娘と共に天安門広場を訪れた。天安門事件から2年、何事もなかったかのように大勢の中国人がたむろしていた。

 2006年、トルコ・イスタンブールからマルタへ飛ぶ。マルタ会談が開かれた南部の漁師町マルサシュロックへゆく。マルタはバスの王国。小さな丸い島を500台のバスが、1日、2700本、78路線が走る。マルサシュロックへは27番のバスだ。世界の重要な会談は島や船上で行われると決まっている。港町マルサシュロックも入り江が深く、三層になっていて包囲口も一つ、なるほど警備は万全だと思った。

 古代ギリシャの喜劇作家アリストパネスの戯曲をもとにした映画「女の平和」を見たことがある。ペロポネソス戦争下、アテネとスパルタの男たちは戦争に明け暮れている。一人の女性リューシストラテーは、何とか戦争をやめさせようと、密かに敵、味方の女たちを招集する。「男たちが戦争をやめるまで、女はセックス・ストライキを行使しよう」と決議し、全員、男たちを拒んでアクロポリスを占拠する。やがて敵味方の男どもも、不承不承、平和条約を結ぶに至るという喜劇のようなお話。

 女たちよ、今こそ平和を守れ! そして男たちよ、戦争という「負の歴史」を二度と繰り返すな! 「戦争は女の顔をしていない」のだから。

「One Second 永遠の24フレーム」(c)Huanxi Media Group Limited