ひゅうまねっとの成立
 忘れもしない1986年11月の夕暮れ。筆者が本業としている公文式教室の学習時間もそろそろ終わりに近づいたころ、一人のドイツ人男性がドアを開けて入ってきた。
「こんにちは。お邪魔してすみません。私は今、教室を探しているんですが。」
「教室?ここは、クモン・シューレですよ。」
「私達は、ドイツ人の教師の団体なんですが、授業が出来る教室を探しているところなのです。こちらの教室を私達が借りることはできませんか。」
「私達の教室は、月曜日と木曜日しか使っていませんから、あとの日はあいています。お貸しすることはできますが、どういう授業をされるのですか。」
「それは、すばらしい。私達がやりたいのは、学校のカリキュラムにとらわれない内容の授業です。たとえば、成人教育、それから子どものための英語とか、そういう内容です。ドイツでは教員免許を持っていても、なかなか教師には採用されないんですよ。子どもの数が少ないですからね。私達は、そういう、教師になりたくてもなれない仲間の自助グループなんです。でも、私達の経済力では、オフィスを借りるお金がない。それで、今外を通りかかったんですが、看板を見て、もし教室が借りられるならと思って、こちらにうかがったというわけです。」
「偶然ですね、それは。実は私も、この教室を使っているのは、週にたった二日だけなので、残りの日を利用して、カルチャーセンターのようなものができれば、とちょうど思っていたんです。でもそれは、私一人ではできない。誰か仲間がいればと思っていました。」
この男性アルフレートと私は、お互いのニーズが合致していることに驚いた。とんとん拍子に話が進み、私達は、さっそく「独日文化フォーラム」という名前のNPOを設立した。そしてドイツの法律で認可されている公益社団の資格を取った。教師の自助グループが、独日文化交流を通して自己実現を図るというのが、その趣旨だった。
 私たちはしばらくこのNPOの活動をしていたが、そのうちにアルフレートがこの一環として、開発援助活動も行おうと言い出した。「文化交流」ができるというのはあくまで社会階層の一部。しかし、世界にはそれがかなわない人々が何億人もいる。その人たちに対して、私たち先進国の責任を果たそうと。それに賛同して私たちのNPOを「独日文化フォーラム/ひゅうまねっと」と改名し、その目標も定款に書き加えた。

チャリティショップを開く
 最初のころは、このカルチャーセンターから上がった収益を開発援助団体への寄付に充てていた。ところでこのセンターのコース参加者の大部分は日本人駐在員の家族だったが、そのうち彼らが3~5年で日本に帰国し、不要なものがたくさん出て処分に困るという話を聞きつけた。そこで試しに、それらの品物を寄付してもらって、それを売るというバザーを、教会を借りて開催した。これが大成功に終わり、たった1日で1万マルク(当時の実勢価格で100万円)も売り上げた。これはカルチャーセンター何か月分かの収益である。
 この経験を通して、帰国する日本人にとって、容易にゴミを捨てることのできないドイツでは不用品を寄付できる場所があるのは救いになること、また地域住民にとって、日本的なものはエキゾチックで魅力的なこと、この間に商売が成り立てば、NPO活動として発展できることを私たちは学んだ。そうだ、この流れを利用して、常にバザーを開催できるようなお店を開こう!モデルになったのは、イギリスで活動が盛んな、寄付品の販売により公益目的で資金を集めるチャリティショップである。
 さっそくデュッセルドルフの下町に手ごろな貸店舗を見つけ、開店の準備を始める一方、私は、何人かの公文生徒の母親たちに教室に集まってもらって、その計画を話し、彼女たちの協力を仰いだ。友が友を呼び、すぐに20人ほどの日本人主婦がボランティアを申し出てくれた。彼女たちは、日本人家庭に呼びかけ、たくさんの不用品を集めてきたほか、値つけや品物の搬入、陳列、店番のローテーション作成など精力的に働いた。店は、ヒューマネット・ショップと命名された。ローカル新聞を駆使して、日独親善の店と宣伝してもらい、やっと開店にこぎつけた。1991年のことである。

Humanet Shopを訪れた上野千鶴子さん 右は筆者

Humanet Shop店内(1) 衣類は1~5ユーロ

Humanet Shop店内(2)



 新聞記事を見てやってきた客は、開店前から店の前に並んでいた。客の波は引きもきらず、第一日は売上が900マルクもあった。その週は毎日面白いように品物が売れ、全員で成功感にひたった。しかし喜んでばかりもいられない。寄付品はあっという間に底をつき、次の商品を集めてこなければならなかった。毎回毎回、私達が個人的に集めに回るのは大変である。そこで、公文の教室で、いつでも寄付品を引き取れるようにした。また、マイクロバスでピックアップサービスも始め、運営もだんだん軌道に乗るようになってきた。

 当時、デュッセルドルフは、EC統合に向けてヨーロッパに進出する日本企業であふれ、在留日本人の数がいちじるしく増加していた。とりもなおさずそれは、店へ集まる大量の良質な寄付品を意味する。何しろ仕入れ値はタダなので、安価で提供してもちゃんと収益はあがるのである。
  一方ドイツは、ベルリンの壁崩壊後、東欧地域からいわゆる経済難民に近い形でたくさんの人間が押し寄せてくるようになっていた。開店の頃は、かなり裕福なドイツ人も新聞記事につられてわざわざ買いに来てくれていたのだが、次第に、店の客層は外国人や低所得者層へと移行していった。店は、デュッセルドルフの市街区でもっとも外国人比率が高い地域にあったので、これは当然だった。一方、ボランティアの日本人女性は、たいていライン川対岸の裕福な人々の住宅地に住んでいたから、この店に来ると、ふだんあまり触れることのないドイツ社会の現実も見えてそれもまた学びとなった。

 

デュッセルドルフで外国人比率が最も高い地域(35%)にHumanetShopがあった



 しばらくして、ショップと同時並行で行っていたカルチャーセンターの活動は、手も回らず、またいい加減な教師も多かったところから停止した。そして、代表だったアルフレートも援助をめぐる考え方の違いからNPOを脱会し、そのあとを筆者が引き継いだ。結局、日本人女性中心で行っているチャリティショップの活動のみ残ったのである。店は、夜の間に泥棒が入ったり、水道が壊れて地下の商品置き場が水浸しになったり、店の品物はおろか、店番の財布が客に盗まれるという事件も発生した。ともあれ、入れ代わり立ち代わりボランティアをしていた駐在員主婦を中心にこの店をなんとか運営していたのは、最初の十数年だっただろうか。

店の入口のドア 商品盗難の場合は告訴するという表示





チャリティショップの終わり
   気が付くと、日本人家庭から届く寄付品がどんどん減少していた。届けられても、以前のような質の高いものでなく、ほとんどがらくたのようなものばかり。その大きな理由はグローバル化とネット社会である。まずは駐在員というステイタスが以前のようなエリートではなくなった。経済的にそう恵まれなくなった駐在員家庭は、帰国に際してできるだけモノを持ち帰るほか、ラインやFacebookなどSNSを駆使して最後の一品まで売ってお金にしていく。また、インターネットの普及が、人々の関心をそこに住んでいる現地社会ではなく、日本へと向かわせた。デュッセルドルフは日本人インフラも充実しているので、ドイツ語を学ぶ必要がないほど、内向きになる。
 かつて店のボランティアを興味と熱意で引き受けていた、労働許可を持たない駐在員主婦が激減した。あるいは、ホームオフィスで日本での仕事を続けていたり、ネットビジネスを手掛けたりする日本人女性も多くなった。こうした駐在員に代わって増えているのが、ドイツの長期滞在者、国際結婚をしている人々である。ただし、この人々は若ければ、たいていフルタイムで仕事をしているため、いきおいボランティアに来るのは、年金生活者や高齢者がほとんどとなり、無理がきかなくなった。
 また、店に買いに来る人々も減少してきた。グローバル化で、いわゆるファーストファッションがちまたにあふれ、T-シャツでも2ユーロで新品が買えるご時世となったからである。
 あまりに採算が取れなくなったので、一定の解約期間を経て、ついに私たちはこのヒューマネット・ショップを閉店することにした。なんとそれは偶然、コロナ危機にちょうど突入したときだった。もし、このまま運営を続けていたら、ロックダウンで客も来ないのに、家賃だけを払い続け、最終的に大赤字を呈していたことだろう。最後の最後に天は我々に味方したのであった!
残っていた商品をすべて処分し、棚も撤去し、カラになった店内に私はたたずみ、しばし感慨にふけった。人々がつないできたほぼ30年のチャリティショップの歴史。どんなにたくさんの出会いや学びを私たち日本人に与えてくれたことか。

援助を通した学び
 チャリティショップの活動が盛んだったころ、店はいわゆる社会的弱者にとって人気の的だった。商品を買いに来るとは名ばかりで、何時間も知り合いや友達と井戸端会議をしているスカーフを被ったイスラムの女性たち。壁が開いたばかりの東欧で転売すると見られる商品を、大量に買っていくプロの人たちもいた。本帰国する店番の女性に花束をもってきてくれたイタリア人のおじさんもいた。
 こういう地域住民とのふれあい、間接的なサポートとは別に、店の収益で行っている開発援助団体への寄付を通して、アフリカやアジアの問題が身近につながった。なにしろ小さなNPOなので、援助の決定までに時間はかからない。ただし、私たちの援助先は、自分たちの身の丈に合った団体にしようという方針はある。それも、女性とこどもを支援できるようなプロジェクトを。こういうことは、私たちがあれこれ経験値を積んできて決めたことだ。

 西アフリカ、ベニンではたった一人で現地住民と一緒になって学校づくりをしている当田アストリットさんに協力して、ひゅうまねっと設立当初から息長い支援を続けている。
 ポーランドの児童養護施設には、メンバーが何度も訪れ、ホストファミリーとも親しくなった。
 タリバーンが入ってくる直前まで、現地で危険を冒しながら女子教育に携わっていたグループも支援していた。
 フィリピンの井戸掘りプロジェクト、コソボに種を送る農業支援、ベトナムの車いす購入、スリランカの身障者のこどもたちの通所施設。
すべて人と人とのつながりから始まった支援である。草の根のネットワークとは、こういう小さな団体のつながりなのであり、そこにはユニセフやドイツで大きな力を持っている教会関係のNPOなどとは違うニーズがある。往々にして見られるドイツ慈善団体の「上から目線」も私たちは持たず、「困ったときはお互い様」の地球規模のやりとりなのだ。
ちなみに、東日本大震災が起きたとき、私たちのNPOは、デュッセルドルフにあるいくつもの日本人団体で、唯一日本へ寄付金を送金することが認められた団体であった。定款に「困窮する人々への援助活動を行う」と明記してあったからである。企業関連の団体は当時、多額の寄付は集めたものの、ドイツ税務署に「定款にない活動をしてはならぬ」として日本への送金を差し止められたのだ。

Humanetの支援で建ったベニンの学校の壁にロゴが見える



今、ウクライナへ
 さて、2022年2月末。突発的に大きな援助ニーズが出現した。言わずと知れたウクライナ戦争である。次々に押し寄せてくるウクライナ避難民。これを見過ごすのであれば、ひゅうまねっとの名がすたる。では、私たちは何ができるのか。当初、デュッセルドルフのウクライナ領事館で衣類や医薬品の寄付を募っているという情報を聞きつけ、さっそくメンバーがかけつけた。しかし、逆に膨大な衣類が押し寄せ、とても対応できていない状況。また、医薬品はこちらで買って現地に送るのは効率も悪く、高くつく。それよりお金を送って、現地ですべて調達できるという薬品を購入してもらう方が安上がりで手っ取り早い。それに対応すべく、現地でひゅうまねっとのパートナーとなる同じくらいの規模のNPOを探した。幸い、筆者のところに個人的に身を寄せていたキーウから避難してきたオルガが、そのNPO探しを仲介してくれた。西ウクライナで戦争の起きるずっと前から、困窮を抱えている家族のための支援を行ってきていた、日本語で「信頼」という名前のNPOと連絡を取り、早急にそこに送金したのである。
 ところで、チャリティショップがもはやないひゅうまねっとは、いったいどのような手段で収益を得ているか。店からの収益もまだ残っていたし、チャリティコンサートを何度か開催して、寄付を呼び掛けた。ロシア人音楽家や旧ソ連圏に属する音楽家を始め、ピアニストの福間洸太朗さんも気持ちよく協力してくださった。コロナ危機で盛んになったコンサートのオンライン配信も行って、寄付者の範囲もぐっと広がった。ドイツでは、コロナ禍も収まってきたから、閉店したひゅうまねっとショップの代わりに、公文式教室で2022年秋から「月イチ土曜市」というミニバザーを定期的に行うこととした。また、ようやく各地のイベントが復活したので、ジャパンデーなどを利用した出張マーケットで、日本的なものを販売した。

ウクライナ支援チャリティコンサートフライヤー



ウクライナ支援チャリティコンサート 福間洸太郎さんのピアノ配信



デュッセルドルフ中央駅前広場で開催したJapanBasar

Japan Basarのにぎわい


 報道からは一目瞭然、破壊されたウクライナの復興には、この先どれほどの援助が必要なことか。30年目にしてまた始まった新たな挑戦。打ち上げ花火のような一過性でなく、ウクライナにもこの先、「ご近所のよしみで」、人々の普通の生活が戻るまで支援を続けていこうと、私たちは今強く思っている。

<『現代の理論 2023 冬号』より、写真を追加して転載>

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