2年前の6月7日、母が97歳と9カ月で旅立った。5月末、母の三回忌を西陣の興徳寺で無事に終えた。お住職は読経のあとの法話で、蓮如上人と一休禅師の極楽浄土をめぐる「とんち問答」を語られ、クスリと笑いを誘われた。熊本から父方の従姉妹も来てくれて、ゆっくり母のことを話し合えてよかった。その3日後の6月10日は数年前に五十回忌を終えた、57歳で亡くなった父の祥月命日でもある。
母は大正12年9月、関東大震災の年に熊本で生まれた。生きていれば今年、100歳を迎える。姉と兄と母と妹の4人きょうだい。母の妹・叔母が1人残り、96歳で今、京都でいっしょに元気に暮らしている。
母より4歳上の姉・伯母は大正デモクラシーの風にふれたせいか、軍国少女だった母や女子挺身隊に行った妹とは違い、戦時中、「こんな戦争、負けるに決まっている」と思っていたそうだ。日本軍法務官だった夫とともに奉天から台湾へ。部隊長として突撃命令を出す前にいきなり、「離婚だ。お前は熊本へ帰れ」と伯母に命じたという。「なぜですか?」と尋ねる伯母に、「わけは言えぬ。大石蔵之助だ」としか答えなかったとか。突撃後、部隊は全滅。夫は捕らえられ、それまで法務官として下した判決を悔いて獄中自殺したことを、戦後、帰国して訪ねてきた部下から事情を聞いたと伯母は語っていた。
母の兄・伯父は五高から東大に進むが、1943年(昭和18年)10月、学徒出陣でハルピンへ飛行機の通信兵として出征。同級生が下士官に苛められ、便所で自殺したことを悔やみ、「戦争は絶対にダメだよ」と小学生の私に話してくれたことがある。戦後、復学して南原繁総長のもと、東大講堂で連日、開かれる演奏会のクラシック音楽に心慰められたという。母も、兄が組み立ててくれた5球スーパーラジオでNHKの「名演奏家の時間」(メーエンスイカの時間だと思っていた)の名曲をハミングしながら楽しそうに聴いていたのを思い出す。
母方の祖父は、お酒で家代々の身上を潰し、私が物心つく頃は朝市の魚市場でセリの仕事をしていた。素早い計算をパチパチ弾くセリを見ていて、「おじいちゃんの頭の中には算盤が入っているんだ」と思った。そして鱧の骨切りや刺身をつくる見事な包丁さばきを、大きく目を見開いて台所でじっと見ていた。
「もっこす」(熊本弁でガンコ者)だった父親に似て、母は子どもの頃から「イヤなものはイヤ」と自分を通し、おままごとや人形遊びは大嫌い。男の子たちと遊び、喧嘩をして男の子を泣かせては、その子の母親が、家まで文句を言いにきていたという。私が小さい頃、近所の友だちに泣かされて帰ってくると、タライで洗濯をしていた母は私を睨みつけ、「あんたは弱かねぇ。負けずに相手を泣かせてきなっせ!」と叱られ、またワーワーと泣きだすのが、いつものことだった。
小学5年生の時、走り幅跳びで九州1位になり、高等女学校受験前の夏休み、一家で阿蘇へ避暑に行き、1カ月も滞在。「早く家に帰って勉強しなさい」と担任の先生が迎えにこられたこともあったらしい。
高等女学校卒業の頃、私の父の伯父が学校にやってきて、「甥っ子の嫁の候補に女学生を2、3人、見つくろってほしい」と校長に頼んだという。魚じゃあるまいし、ひどい話だが、校長も校長だ。3人、見つくろって紹介したとか。その中から一番背が高い母を選んで見合い結婚したのが、母が18歳の時、父は一回り上の30歳だった。
1942年(昭和17年)、母は中国へ渡る。北京の農業関係の合弁会社に勤務する父に従って。父は、大人(たいじん)の風格が残る中国人たちとも仲良く、中国仕込みの麻雀が強かった。北京の中心街・王府井近くの東単の胡同(フートン)で暮らす。弁髪にチャイナ服を着た中国人教師に中国語を教わり、母は四声(マーマーマーマー)も上手に発音し、「阿媽」(あま)と呼ぶお手伝いさんとも仲良く過ごしていた。ただし、戦中の日本植民地支配下の中国での暮らしだったのだが。
突き抜けるような澄んだ北京の空気が体に合わず、母は重病を患い、戦中、生後3カ月の私を抱いて満鉄に揺られて関門海峡を渡り、日本へ帰国。戦後、ストレプトマイシンもないなか、安静と栄養で回復して98歳まで長生きをした。病床の母に代わって私を育ててくれたのは、大伯母(祖父の姉)の「松おばさん」だった。
戦後2年して、父が中国の人たちに助けられて無事、帰国。田舎で農業をしようと母にいうと、母は「イヤだ」と断り、父は母の言い分を聞き入れて、大阪南部の淡輪(現・岬町)の山を開墾して農場を拓いた。牛や馬、豚、羊や山羊を飼い、食べ物がない時代、私は絞りたての牛の乳や山羊の乳を飲み、一斗缶に入ったバターやチーズを食べて育った。満天の星を仰いでドラム缶のお風呂にも入った。いつも穏やかだった父は、満蒙開拓団帰りの人たちや在日朝鮮人の人たちとともに、夜明け前から夜遅くまで、みんなと仲良く、いきいきと働いていた。
昭和20年代は、アメリカからハリウッド映画がいっぱい入ってきた時代。母は私をつれて、南海電車に乗って難波のスバル座へ毎週のように映画を見に行った。ケーリー・グラント、ジョセフ・コットン、グレース・ケリー、イングリッド・バーグマン、オードリー・ヘプバーン、ビング・クロスビー、ダニー・ケイなど、「きれいだなあ」と見とれながら総天然色の映画のシーンを見ていた。日曜は和歌山の水軒口まで母に連れられ、井口基成の弟子だったというピアノの先生に、こわい、こわいレッスンを受けに行った。
その間、母の姉と妹は戦後の生活を自活するため、大阪の上田安子服飾専門学校で立体式製図を学び、熊本で洋裁店を開く。戦前、アメリカのサンフランシスコに渡っていた遠い親戚から、開店のお祝いにシンガーミシン3台とファッション雑誌『VOGUE』が、毎月、送られてきた。シンガーミシンは叔母の実家に今もある。既製服がまだなかった頃、伯母や叔母がつくってくれるワンピースを、チクチク痛む仮縫いから仕立てて誂えた洋服を、いつも着せられていた。
高校2年生の時、同級生の男子に誘われて行った初めてのデートは「風とともに去りぬ」だった。その時も仕立てたワンピースを着ていたせいか、映画館に入る高校生2人を周りの人たちがじろじろと見ていた。その後、3年生になり、「ごめん、そろそろ受験勉強をしないといけないから」と、やんわりお断りしたら、彼は黙ってうつむいて帰っていった。それから発奮したのか、彼は現役で東大に合格したらしいと、のちに噂で聞いた。「○○君、あの時は、ほんとに、ごめんね」。
大学を卒業後、「結婚したい人がいる」と告げると、母は「だめよ」と反対。それを押し切って結婚。9年後、姑の看病に千葉から京都に戻ってきた時も母は反対した。「娘が苦労するのが心配」なのではなく、私が「嫁」という役目を自ら望んで選んだことが気に入らなかったのだ。そして20年後、私たちが離婚を選んだ時も、「離婚はよくないけど、あの人と別れたのはよかったわ」と母はいった。まあ、ほんとに変わらない人だ。
6月は父と母の祥月命日の月。私が身重の時に逝った父。亡くなって数日後、父が夢に出てきた。障子の陰から「あとはよろしく頼むぞ」と一言いって、障子の向こうにスーッと消えていった。母は父の死後、父の給料がいくらだったかも知らなかったのだ。そんな人生も母らしいなと今は思う。

佐多稲子の『あとや先き』(中央公論社、1993年)を読む。流れるような文章がいい。小学生の時、新聞小説の『体の中を風が吹く』を読んで以来の佐多稲子ファン。佐多さんが88歳の頃だったか、婦人民主クラブ・京都に来られて、東山会館でお目にかかったことがある。私のことを少しお話したら、「私も結婚に失敗した女だからねぇ」と、そっと頬に手を添えて話されたのを懐かしく思い出す。
この本には、中野重治と原泉のこと、沢村貞子のことも書かれている。『婦人民主新聞』で原泉がインタビューされて、「中野と私の結婚には、稲子さんも、いっちょう、かんでいるんですよ」と語ったこと。中野重治にすすめられて佐多さんが『キャラメル工場から』を書いたこと。原泉が中野重治の結婚申込みを受ける条件として、「俳優の仕事をつづけてゆきたい」と語ったこと。中野重治が特高警察で拷問を受けていることを知りながら、チャールストンを踊りながら舞台に飛び出さねばならなかった原泉の思いなど。そして「中野重治も原泉も、今は、もういない」と書く。
戦後すぐ、『新日本文学』が生まれた時、会員になるために佐多さんは中野重治に推薦を依頼した。しかし中野は佐多が戦中、作家として戦地へ慰問に行った戦争責任を問い、推薦を断る。佐多さんはそれを受けて、「20年代には、私は、自分の戦争責任と、婦人民主クラブ、その二つのことに一生懸命でしたね。しかし、長生きしたもんですね。私、ひとり生き残っているみたいなものだもの」(中央公論文芸特集、1992年秋季号)とインタビューで語っている。その時、佐多さんは88歳かな、それから6年後の94歳で亡くなられた。
佐多さんは、東西冷戦期のチェコスロヴァキアのプラハを3度訪れている。「カレル橋の欄干には十字架にかかったキリストを中心に聖人たちの像が並んでいて、カフカもカレル橋を何度も通ったことだろう」と書く。
ああ、またプラハに行きたいなあ。1989年、「プラハの春」を迎えたヴァーツラフ広場やプラハ城裏通りフラッチャニ地区を、また歩きたい。プラハでは、「カフカ」という名の安宿に泊まったっけ。
「あとや先き」。でも、もうしばらくは私の人生を楽しみたいと思っている。母に負けずに、「私、100歳まで生きてみようと思っているからね」と、空の彼方の母に向かって言ってみようかしら、と思う。
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