女性農業者の活動を追いかけて、日本全国を飛び回る食ジャーナリストの金丸弘美さん。この9月で26回を重ねた連載「金丸弘美のニッポンはおいしい!」はWANの人気企画のひとつ。記事を読んで、「こんな風に頑張っている女性たちがいるんだ!」と励まされる方も多いはず。
実は金丸さんが食分野に関心を持ち、取材するようになったのはご自身の子育て中に、子供たちにアトピー・アレルギーが増えていることを知ったのがきっかけ。「なぜこんなことが起きているのか」「いったい私たちは何を食べているのか」という素朴な疑問からスタート活動を通して、日本の食の変遷と未来を考えるきっかけをくれる連載をお届けします。
子どもの保育園の送迎から始まる物語
私が食や農業の取材をするようになったのは、1991年、長男・金丸知弘が3歳になり、保育園に通っていたときに送り迎えをしていたことがきっかけでした。当時、私は39歳。共働きの32歳の妻と3人家族で、東京都世田谷区のマンションに住んでいました。
私の出身地は佐賀県唐津市。佐賀県立唐津東高校を出て東京の大東文化大学中国文学部に入りました。そのあと文学部へ移り、卒業。文学・映画・演劇に魅せられていました。大学時代は映画研究会や演劇部に所属し、映画雑誌の投稿、自主映画をつくったりしていました。映画の仕事に惹かれていました。雑誌にも興味があり、大学を卒業して美容業界の新美容出版社に入社。
編集者として仕事をし、オフの時間は映画・演劇に通っていました。その後、新美容出版を退職し、作家・演出家・高平哲郎さん主宰のプロダクションに移籍。女優・松金よね子さん、熊谷真実さんのマネジメント、演劇制作のお手伝いを経て、JRが創刊した雑誌「トランヴェール」の編集を手掛け、同時にテレビの企画などにも携わり、さらに好きな映画の連載も行いました。そして、新美容出版時代の先輩だった國府田(旧姓・義岡)恭子さんの紹介で、彼女の妹の早苗と結婚をしました。
高平哲郎さんの事務所で7年ほど働いた後に独立し、フリーライターとなりました。
フリーライターになっても相変わらず映画、演劇のテーマを追っかけ、雑誌の編集や連載記事やコラムの執筆をしていました。当時は、農業や環境の取材はまったくといいほど興味がなく、関わっていませんでした。
映画の記事は「Mr・ハイファッション」(文化出版局)から始まり、「ビデオサロン」(玄光社)、「産経新聞」、「クロワッサン」(マガジンハウス)、「L&G」(JR東海)、「装苑」(文化出版局)などに連載させていただきました。「日経ギフト」(日経BP社)では、映画に登場する贈り物を書いた連載を書き、「こんなsceneで贈り物」(平野恵理子・絵 福武書店)というタイトルで書籍化。本は75媒体で取りあげられて2万部のヒットとなり、そこから映画のことを書く事が一気に増えたのでした。
そうした中で、妻・早苗との間に長男の知弘が生まれたのは1988年。知弘は3歳から保育園に入ります。
子どもの保育園の送り迎えは私の担当でした。当時は、今と異なり、男性が保育園の送迎をするのは珍しい時代。私の意識が高かったわけではなく妻に言われるままにしていたことです。保育園の送迎のとき、園の先生から「お父さんの送り迎えは珍しいです。何のお仕事ですか?」と聞かれ、「自由業です」と応えたら「やくざの方ですか」と言われてしまいました。相当、いかつい顔をしていたんですね、きっと。
妻がなぜ私に保育園の送り迎えを担当させたのか、後で知ったのは私の元同僚であった妻の姉(恭子さん)のアドバイスでした。「子どもが小さい時期は短い。子育てを手伝ってもらって、お父さんが子どもに触れる時間を増やしてあげなさい」と言われたとのことでした。
恭子さんの思惑通り、私はすっかり子どもに夢中になりました。「もっと子どものことを話していいのよ」と恭子さんに言われ、「いや、親バカと言われないかと思って」と言う私に、「ただのバカよりいいじゃない」と笑われたこともあります。
子どものアトピーが多い、実は妻も若い頃重度のアトピーだった
ある日、保育園の先生に「知弘君はお肌が綺麗ですね」と言われました。私はびっくりして「子どもの肌が綺麗なのは当たり前でしょう」と答えたら、「とんでもない。今は、アトピー、アレルギーで肌が荒れている子どもたちが多いんですよ」とのこと。
家に戻り、妻にその話をしたら「実は、私、18歳のころ、重度のアトピーだったのよ」と言われて驚きました。
顔がまん丸にはれ(ムーンフェイス=満月様顔貌と呼ばれる)、10代なのに白髪になり、しまいには立ち上がることもできずに車椅子生活となったというではありませんか。体重は100kgまでにもなり、日常生活も支障をきたすほどだったそうです。「20歳まで生きられないと言われた」と、そのとき初めて聞かされました。将来、子どもは産めないだろうと言われていたそうです。
アトピーの治療として、ステロイドを使用したものの、塗る方も、飲む方も「もう限界だ」と言われて、始めたのが食生活を見直しだったそうです。
そんな妻がどうやって回復したのか。ここでちょっと妻の少女時代のことを紹介しましょう。
大阪万博(1970年)のすぐ後、1971年に妻の家族は、地元の鹿屋市から大阪へ移りました。と言うのは、妻の父親が戦前・パイロット、そのあと自衛隊のパイロットで(アメリカから国内向けの飛行機も運んだそう)を経て定年退職。海軍時代の軍医の方が大阪・大手前病院の医院長をされている縁で、そこの寮の管理人に呼ばれ、家族で引っ越したのでした。
家族は両親と姉二人、兄一人の4人兄弟。末っ子の妻・早苗は当時、中学生。言葉が違うことで、田舎者とずいぶん学校でいじめにあったそうです。一所懸命、標準語を習って喋ると「東京弁をつこうて生意気や」と言われたとのこと。セーラー服をカッターで切られたこともありました。
暮らしでは食生活が激変。インスタントラーメンが大人気だった時代です。両親が慣れない仕事で超多忙だったこともあり、鹿児島の地元の野菜や魚を使った和食から、簡単なラーメンや店屋物、洋食が増え、やがて重度のアトピーを発症します。
高校1年生でバレーボール部に入りましたが、練習中に急性腎炎で倒れ救急搬送され入院。それから2年半の入院。病院からタクシーで学校に通うことに。学業もままならず留年。教科書をもちこみ病院で学習し、かろうじて卒業。当時、病院で腎臓透析も勧められたそうですが、さらに入院することになると拒絶。当時は太り、体中が腫れていました。
そんなとき、教職の仕事についていた長女の千恵子さんが夫のDVで離婚して実家に戻り、栄養士の資格をとって始めたのが、ミキ商事の代理店。プルーンの販売の仕事でした。母は猛反対でしたが、千恵子さんは、さまざまな大学の栄養学や、腸内細菌の専門家、名だたる方々を招いて勉強会も開催するようになります。
早苗も、姉・千恵子さんの指導で食生活を変えることとなりました。おかゆや、豆腐、肉じゃがなどの和食に切り替え、毎日、プロティンやプルーン。当初は、毎日吐いて、風呂に入ると皮膚や頭のかさぶたが落ちて、水面が汚れるほどだったと言います。それでも続けたのは、実際に食べて痩せてキレイになった人がいて、「キレイになりたい」との一念からでした。こんな生活が1年半。体重は25kg減り、そして普通に歩けるようになったのでした。
高校を出て美容学校に入りました。これも「美しくなりたい」という思いからだったそうです。しかし美容師の仕事は、重労働で体力的に無理と言われて美容師は断念。知り合いのつてで法律事務所に就職をした後、千恵子さんの仕事を手伝うようになります。そんなときに二番目の姉・恭子さんが新美容出版に就職。その縁で、私は、恭子さんの妹だった早苗と会うこととなったというわけです。
私と出会い、結婚したときの妻はすっかり健康体でした。実は長男・知弘が生まれたときの、妻の母と、姉・千恵子さんの喜びようは驚くほどでした。当時は「なんでこんなに喜ぶのだろう」と思っていたのですが、その理由をのちのちに知ることとなるわけです。
アトピーの取材から食の環境の激変が要因と知る
1995年に「日経ヘルス」(日経BP社)の創刊が予定されパイロット版がでることとなり、なんと「アトピーのことを書かないか」と打診があり引き受けました。よくわからないからです。どっさり資料も渡されました。
当時、本屋さんの棚を観るとアトピー関連の本が多くあり、例えば「温泉で治る」とか「自然水で治る」とか「〇〇で治る」という類の本がたくさんありました。
それらの本を書店でチェック。またお医者さん、患者など、かなり取材をしました。「アトピー」はギリシャ語のATOPOSから来ているそうで、「不思議な」「とらえどころのない」という意味があり、つまり、はっきりアレルギーの要因が明確にあるものに対して、そうではないものを指す言葉であることも知りました。
取材のなかでアトピーの子供たちにも多く会いました。肌が真っ赤に腫れ、首回り、腕、足の膝の裏など、あちこちから血がにじみ出ている子どもたちもいました。目をそむけたくなるほどで、アトピーとはこんなひどいのかと驚嘆したものです。
専門医に会い、さまざまな話を訊くうちに、アレルギーを引き起こすアレルゲンも人それぞれ異なる。つまり本にあるような「〇〇で治る」は、どれも正しいが、どれも正しくない。なぜなら、それは人によって効く人もいれば効かない人もいる。特定できない。
そこから食生活の偏り、間食、運動不足、生活リズムの変化、化学物資、農薬、環境と暮らしの変化などさまざまななことが深くかかわっていることを知りました。
たとえば、朝ご飯を簡単にすます。菓子パンや、インスタント食品。昼間は惣菜。間食で菓子、ジュースなど、夜はテレビで就寝が遅い(今なら、スマートホンやゲーム)。
本来は、よく運動し、バランスよく、野菜もたっぷりに、果物もいただき、肉や魚も適度にというのは理想です。しかし実際は、そうはなっていません。例えば、昼間にインスタントラーメンを食べれば、おなかは満たされる。喉が渇いたとジュースを飲めば、その場は収まる。
ところが、後々、知ることとなることになるのですが、簡単な市販の食品には塩分、脂肪なども多くあります。ジュースには砂糖がたくさんあります。保存のために保存料がたくさん入っています。
簡単な食生活はできるけど、それが積み重なっていくと偏った食生活から、ビタミン、ミネラル、食物繊維など、体にとって大切な栄養素などが十分とれず、そこからアトピーや、肥満、高血圧など生活習慣病へと繋がっていくことを、お医者さんの話や、厚生労働省の調査資料などから、後々から知ることとなります。
よく考えると、私たちの日常は、簡単な食があふれています。自分自身が、若い頃、食生活をまったく考えない生活を送っていたことで、大学生時代代に急性肝炎になって入院したことがあったのでした。20代後半にはマイコプラズマ肺炎を患い救急車で搬送されて長期入院も経験しました。
結婚して、子どもが生まれてしばらくまでは、たばこも吸っていましたし、コカ・コーラを始め清涼飲料水もよく飲んでいました。
●学校保健統計調査-令和3年度(確報値)の結果の概要(文部科学省)
https://www.mext.go.jp/content/20221125-mxt_chousa01-000023558.pdf
最新統計を観ると6歳ではアトピーは3・02%、11歳で3.32%となっています。 顕著なのは視力低下で11歳で1・0以下は50.03%。「令和3年度 身長・体重の平均値及び肥満傾向児及び痩身傾向児の割合」を観ると肥満は11歳で12.48%となっています。
スペシャル連載「私が食ジャーナリストになった理由(わけ)」第二回に続きます。