陽の当たらなかった女性作曲家たち、シリーズ4第10回はアメリカ合衆国のジュリア・ペリー(Julia Perry)をお送りします。1924年、ケンタッキー州のレキシントンで生まれ、1979年にオハイオ州のアクロンで亡くなりました。

 この連載エッセイでは過去ふたりのアフリカンアメリカンの作曲家を取り上げましたが、ジュリアは、マーガレット・ボンズと同時代を生きた作曲家で、2024年は生誕100年に当たります。

 ケンタッキーでの生活から、ほどなくしてオハイオ州のアクロンに移りました。母親は学校の先生で、父親は医師、熱心なピアノ奏者でした。家庭には絶えず音楽が流れており、4姉妹は仲が良く、音楽に親しんで育ちました。

 ソプラノの美声の持ち主で、歌うことが大好きで、自転車を乗り回すお転婆な女の子でしたが、16歳の時、やはり音楽を愛しチェロやピアノを得意とした姉が不慮の鉄道事故で亡くなりました。ジュリアは生涯この件に関して口を開きませんでしたが、深い悲しみをもたらしたことは想像に難くなく、創作活動にも深く影響を与えたことでしょう。

 早くから頭角を現し、ピアノとバイオリンを習います。加えて一番興味を示したのは歌でした。ニュージャージー州のウエストミンスター・クワイア―カレッジ(Westminster Choir Collage)に入学しました。ここはプリンストン大学にも近い合唱を専門に学ぶ名門大学で、1949年にはマリアン・アンダーソン賞を受賞し、学部卒業後は修号号を取りました。

 1950年に作曲を始めます。カトリック教会の聖歌のひとつ「スターバト・マーテル(Stabat Mater)」に彼女独自の曲をつけました。イエス・キリストが十字架に架けられた姿に、聖母マリアが深い悲しみを抱いていて祈るという聖歌です。600人ほどの作曲家が曲を付けており、中にはヴィヴァルディ、リスト、ドボルザーク等も含まれています。

 その後コロンビア大学のオペラワークショップを受け、ジュリアード音楽院では指揮も学びました。彼女の才能を見逃さなかった指揮科教授が、作曲の教授に彼女の作品を見せ、そこに確かな才能を認めました。教授たちの推薦により、名門タングルウッド音楽祭に参加します。ここで学生オーケストラと彼女自身のソロ独唱で、作品はいよいよ陽の目を見ました。

 さらに彼女の故郷アクロンへの凱旋コンサートは、ファンドレイジング・コンサートとして寄付を募ったところ、作品は大評判を呼び、大口の寄付も集まりました。ここからイタリア留学の費用をねん出しました。イタリアでは12音階で高名な作曲家、ダラピッコラに師事する希望を持っていました。

 アメリカから船旅の果てイタリアに到着し、ダラピッコラのレッスンも受け、1950年代は主にイタリアに滞在し、イタリア国内で人気を博します。ミラノ、ナポリ、ローマのコンサート、その後ドイツやオーストリアでも彼女の作品は好評を持って迎えられました。

 1952年にはフランスに渡り、名教師ナディア・ブーランジェに師事します。確実に勉強を続け、ビオラソナタがブーランジェー・グランドプライスを受賞します。

 アメリカ政府情報局の音楽プログラムの一環で、指揮者としてヨーロッパ大陸ツアーに参加しました。ヨーロッパ滞在中にはイタリア語に堪能となり、最初のオペラ作品はイタリア語の歌詞で「The cask of Amontillado」を発表しました。

 1953年には、「これ以上は歌えない」と歌手活動から遠ざかり、ほぼ止めてしまいます。その後、更に自分を見つめ深い思索を巡らし、音楽的エネルギーは作曲活動に重きを置くようになりました。楽譜を忠実に読み、猛勉強を続けました。そして1959年にトータル5年半のヨーロッパでの活動を終え、アメリカに戻りました。


 その後は作曲活動の傍ら大学で教鞭をとりました。1965年には、NYフィルハーモニーが初めてのアフリカンアメリカンの女性作曲家として、また、女性作曲家としては3人目になる彼女の作品「Short Piece for Orchestra」を取り上げました。NYフィルに作品がかかるだけで賞賛に値しますが、とりわけ「定期公演」の作品として取り上げられたことの意味は大きいです。その後もNYフィ ルはこの作品を2回取り上げており、2021年ヴェイル音楽祭、2022年の定期公演でした。

 この曲は1952年、イタリアで書かれたもので、当初は室内楽用に書き、トゥーリン交響楽団によって初演されました。この時の指揮者は、同じくアフリカンアメリカン出身でジュリアードの同窓生、ヨーロッパで活動したDean Dixon氏でした。

 また、2023年11月の定期公演では、前述の歌曲とオーケストラの代表作「スタバ―ト・マーテル」が、アフリカンアメリカン出身のメゾソプラノ歌手により大成功をおさめ、ニューヨークタイムスに好意的な批評も掲載され、再びジュリアの名前が脚光を浴びることとなりました。

 1950年代後半にはクローン病を患い体調が芳しくなくなり、加えて46歳で心臓発作を起こし、それ以降は発作を繰り返し、とうとう右手にマヒが出ました。それでも、左手だけを使い生徒を教え作曲を続けました。

 1979年、55歳の若さで病のため亡くなりました。彼女の手元には作品のカタログ(目録)が残されており、12の交響曲、3つのオペラ、3つの協奏曲、多数の歌曲、あとは10台のパーカッションのための作品も書きました。ピアノ作品は、短いソロ作品が残されていたことが幸いでした。

 彼女の作品は、根底にアフリカンアメリカンの音楽的影響が多く見られ、とりわけ初期の作品は黒人霊歌の影響が見て取れます。そこにヨーロッパでの経験と研鑽によりネオクラシックの要素を融合し、闘病が始まって以降は、実に12の交響曲を作曲し、独自の世界を作りました。

 もうひとりのアフリカンアメリカン、フローレンス・プライスは、 30年代にボストン交響楽団を率いる名指揮者クーゼヴィッキーに、私には女性と黒人というふたつのハンディがありますと、作品起用を懇願する手紙を送りましたが、全く返事はありませんでした。ジュリアはプライスの約20年後、公民権制定まで間もなくという時代に活動し、そしてボストンとニューヨークという土地柄の違いや、ジュリアはすでにヨーロッパでの実績があったことが作品の扱いの違いに繋がったのか、興味が尽きないところです。

 この度の音源は、ピアノソロ曲「プレリュード」。1946年初稿、1962年改訂版です。