
陽の当たらなかった女性作曲家たち第4シリーズ第11回は、ハンガリーのエリジェベト・スー二(Erzsébet Szőnyi)をお送りします。1924年ブダペストで生まれ、2019年12月に同地で亡くなりました。ハンガリー出身者のエッセイはエンマ・コダーイ(1863-1958)に次ぎ2人目です。
1896年には地下鉄1号線が走り(後年ユネスコ世界遺産となる)、彼女が生まれる4年前、1920年にはトリアノン条約により、ハンガリー/オーストリア二重帝国が終焉を迎えました。ハンガリー山間部の炭鉱など鉄鋼業の経済は落ちましたが、まだ国全体は栄えていました。エリジェベト幼少期の写真は、どれも清潔で可愛く、おしゃれな洋服に身を包んでいて、豊かな時代だったハンガリーが見て取れます。
複雑な歴史を乗り超えた国ですが、第二次大戦で大きなダメージを受け、その後1956年の動乱では、ソビエト軍がたった12日でハンガリー侵攻に成功しました。美しかった多くの建物が被弾をし、それ以降は社会主義国としてベルリンの壁崩壊の1989年まで苦難の時代が続きました。
母方の祖父はブルガリア系ドイツ人で、ソルボンヌで言語学博士を取得した人物でした。ここで生まれた母親の影響下で、家庭ではドイツ語で暮らしながらハンガリー語も話し、ブルガリア語も飛び交い、加えてフランスに親しい家族ぐるみの知人がいたことから、度々フランスも訪ね、フランス語もよく話せました。
父親は銀行員で絵を描くことや歌にも趣味があり、母親も芸術全般を一緒にたしなみました。音楽と言語は密接な関係がありますので、多言語に精通した家庭環境のもと、同居する祖父母も音楽を愛し、音楽に満ちた環境に暮らしたことは、実は自分の基礎を作っていたのだろうと、後年自覚したと述懐しています。
お転婆でユニークな性格のひとりっ子として、すくすく育ち、家にピアノがあったことも手伝い、早い時期にピアノを始めました。新しく届いたピアノは、ウィーン製のベーゼンドルファー、世界最高峰と認知の高いスタインウェイピアノと並んで、良質な、とりわけ音質がきれいな楽器です。エリジェベトは生涯にわたりこのピアノを愛用しました。
個人レッスンでピアノの先生が家を訪れ、作曲も個人レッスンで始め、13歳で初めての作品を書きました。作曲の先生が彼女の才能を高く買い、次は理論の勉強も始めました。
10歳から18歳まで通った女子校のセカンダリースクールはブダ側にあり、声楽教育に熱心で合唱団に定評がありました。めきめきと頭角を現し、いつもピアノの伴奏は彼女に回ってきました。合唱団の指導者は、イタリアの名指揮者トスカニーニと友人だったため、トスカニーニが学校を訪問した記録も残されています。
1942年にはリスト音楽院へ入学し、先ずピアノと作曲を専攻し、その後、幼児教育専門コースで引き続き学びました。ピアノの試験では、当時は未だ知られていなかったバルトークの作品・ミクロコスモス全集をひっさげ、審査員たちを驚かせました。ミクロコスモスは、その後数十年を経てリスト音楽院では必須課題となり、いかにエリジェベトに先見の明があったかが窺い知れます。ただバルトークがアメリカに渡った1940年は彼女はまだ16歳、ふたりに接点はなく、一度も会うことなく終わりました。
ハンガリー民族音楽学はゾルターン・コダーイの下で学びました。ピアノも室内楽も高名な教授の下で学びました。1945年〜47年には作曲のJanosViskiのクラスで、唯一の女子学生として在籍しました。どの教授たちの目も引く優秀な学生だったため、各教授が自分の生徒として勉強を続けさせたい思いで、いわば、取り合いのような形になり、当の本人は、どの専攻も楽しかったので全てを難なくこなしていたそうです。
1947年に国内の音楽コンクールで優勝し(TheMunkasDaloszoveseg)、受賞作品は「ディベルティメント」。これが作曲家コダーイや彼の最初の妻エンマの目に留まりました。1947年から1年間はフランス政府給費留学生に選ばれ、名門パリ音楽院で学びます。ナディア・ブーランジェやオリビエ・メシアンに師事し、彼らの音楽に触れた最初の機会でもありました。

コダーイと子どもたち
帰国後は、コダーイの生み出した音楽教育(コダーイシステム)のため、コダーイのアシスタントになりました。自身の編纂によるシステムを学ぶ教則本も数々出版されています。加えて、コダーイの妻エンマとは相性も合い、話も弾み、貴重なおしゃべりの数々は、伝記に記されています。時にエンマはすでに90歳でした。
コダーイ音楽教育をごく簡単に説明しますと、世界には、いわゆる『固定ド』と言われる、どの音も純粋に、その音で聞こえる耳の訓練がある一方で、コダーイの提唱した『移動ド』の訓練があります。移動ドは、音程を感じ取ることにより、ひとつひとつの音で捉えず響きに重きを置きます。固定ドの音感教育のおひざ元・フランスからブーランジェがコダーイシステムの見学に来た際は、今まで聞いたこともない全く違う音楽教育に触れ、大きな興味を示し、批評はまたにしましょうとコダーイを讃えたそうです。
コダーイは有名な言葉「どの子供も生まれる9か月前にはお母さんのお腹の中で音楽教育を始めるのが理想」という言葉も残しています。ハンガリーでは、コダーイシステムに進む前段階の義務教育で、どの子もハンガリーに伝承する「わらべ歌」を学びます。その後、選択科目で、音楽や民族舞踏や他の文化的素養を、それぞれが好む授業を取れるシステムになっているそうです。

「日本のうた」の楽譜
エリジェベトは、コダーイ音楽院の認定講師としてコダーイシステムに長らく関わり、また一方で1970年代は世界各国にコダーイシステムを広めるための指導員として、世界中の国を訪れ、そこには来日の記録もあり、この多くの経験が作曲家としての貴重な肥やしにもなりました。日本の民話を基にした作品など(日本のうた/写真参照)、各国のモチーフを使ったビチ二ア(Bicinia-2声の合唱曲)を多く作曲しています。またコダーイシステムに関する彼女独自の著作も出版されており、ゾルタン・コダーイが冒頭に言葉を寄せています。
ハンガリー国内の賞は総なめしました。日本でいう文化勲章等に当たる名誉な賞の数々です。作曲家のリストを冠したリスト賞(1947)、同じく作曲家エルケルを冠したエルケル賞(1959)、コシュート賞(2006)、バルトークとその妻パーストリーを冠した賞は1995年と2005年、2度受賞して
います。
作曲活動と並行して、1987年から2003年はコダーイソサイエティの副理事としてコダーイの音感教育をけん引し、2019年、95歳の大往生でした。社会主義時代が長く、現在も男性の優位性が高いハンガリー社会、そして圧倒的に男性の多い作曲界でも、敬意の念とともにハンガリーを代表する作曲家の1人として名が刻まれています。

多作の作曲家でもありましたが、コンサートに掛かるとか、コミッションピース(委嘱作品)など、必要に迫られて初めて筆を取りました。宗教曲、オーケストラ作品、室内楽、合唱曲、そのほかピアノ曲には、ハンガリーの子どもたちの基礎ピアノ教材「ZongoraIskola~ピアノのがっこう」2巻に2曲入っています。
この度の音源は小品を2曲、「ピアノのための5つのプレリュード」より第1番オスティナート(1966年作)と、「ピアノのがっこう」より1曲、このお皿の甘いポガーチャは美味しい--というタイトルです(ポガーチャはスコーンと似た食べ物です。)
作品はコダーイ作品の影響が見て取れず、むしろバルトーク作品に近いものを感じましたが、やはりご本人はバルトークの作品に作曲技法の影響を受けていると述懐しており、納得がいきました。
出典
A Tear in the Curtain: The Musical Diplomacy of Erzsébet Szőnyi . Jerry L.Jaccard, PETERLANG, 2014.
コダーイ音楽院(リスト音楽院傘下にある)の案内による彼女に関する著作物の案内,上記のアメリカで出版された伝記も以下の記事でご覧になれます。
Publications on Erzsébet Szőnyi | Liszt Academy Kodály Institute (kodaly.hu)
コダーイ音楽院学長による追悼記事、InMemoriamErzsébetSzőnyi (iks.hu)
Wikipedia Erzsébet Szőnyi- Wikipedia
95歳のお祝いコンサート、最前列のスカーフの女性がご本人です。
Szőnyi Erzsébet 95 éves- YouTube
Japan Dalok(日本のうた) Szőnyi Japán dalok- YouTube

以下のように、世界女性の日を記念したコンサートを開きます。
2024年3月6日(水) 午後7時開演
会場:2区 マルチバーニ文化センター
入場無料
慰安婦
貧困・福祉
DV・性暴力・ハラスメント
非婚・結婚・離婚
セクシュアリティ
くらし・生活
身体・健康
リプロ・ヘルス
脱原発
女性政策
憲法・平和
高齢社会
子育て・教育
性表現
LGBT
最終講義
博士論文
研究助成・公募
アート情報
女性運動・グループ
フェミニストカウンセリング
弁護士
女性センター
セレクトニュース
マスコミが騒がないニュース
女の本屋
ブックトーク
シネマラウンジ
ミニコミ図書館
エッセイ
WAN基金
お助け情報
WANマーケット
女と政治をつなぐ
Worldwide WAN
わいわいWAN
女性学講座
上野研究室
原発ゼロの道
動画






