母の家の庭

 55年前に57歳で亡くなった父と、3年前に97歳と9カ月で亡くなった母。2018年、95歳の母と91歳の叔母を熊本から京都に迎えて、同じマンションの別室に越してきてもらう。1年後、2人を連れて熊本へ一度、帰省し、母は、その2年後の2021年6月、母らしく元気に天国へと旅立っていった。一周忌を終え、熊本のお墓へ納骨を済ませて、今年は母の死後3年になる。空き家になっている母の家を何とか片づけないといけないと思い、97歳の叔母をショートステイにお願いして、3月末、娘と中2の孫娘といっしょに数日間、熊本のホテルに滞在して母の家を訪れた。

 石牟礼道子さんが晩年を過ごした江津湖のほとり近くに母の家がある。年に一度、庭の植栽を頼んではいるが、木々は鬱蒼と生い茂り、家はちっとも変わっていなかった。

 父の書斎の古机の引出しを開けると、きちんと整理された書類の中に、1937年(昭和12年)、87年前の父のパスポートと、古い和紙にタイプ印刷した履歴書と、『家の光』やNHKラジオ「農業講座」に寄稿した手書き原稿の束が出てきた。私も初めて見るものばかり。

 父は1937年(昭和12年)、農林省技官として濠州(オーストラリア)へ出張している。パスポートは「大日本帝國外國旅券」とあり、頁を開くと「公用」と記され、大日本帝國外務大臣 廣田弘毅の名がある。廣田弘毅は内閣総理大臣も務め、「協和外交」を推進した外務大臣でもあったが、戦後、極東軍事裁判で文官では唯一人、A級戦犯として有罪判決を受け、1948年(昭和23年)、巣鴨拘置所で絞首刑となった。廣田は裁判では一貫して沈黙を守り、弁明を拒んだという。

 父はまた1938年(昭和13年)、新西蘭(ニュージーランド)に渡っている。「右ハ官命ニ依リ、新西蘭へ」とある。「赴クニ付通路故障ナク旅行セシメ且必要ナル保護扶助ヲ與ヘラレム事ヲ其ノ筋ノ諸官ニ希望ス」(昭和十三年六月二十七日)と書かれている。この時は大日本帝國外務大臣 正二位勲一等功四級 宇垣一成とある。宇垣一成は陸軍大将となり、朝鮮総督に就任。第一次近衛文麿内閣で廣田弘毅の後、外務大臣を務め、戦後、公職追放となるが、東京裁判を主導した首席検察官キーナンは宇垣一成を「ファシズムに抵抗した平和主義者」として1952年(昭和27年)追放解除。翌年、参議院議員となるが、1956年(昭和31年)議員在職のまま死亡している。


 戦前のパスポートの国名が面白い。濠州(オーストラリア)。新西蘭(ニュージーランド)等々。ちなみに中国語読みだと澳州(Aozhou)、新西蘭(Xinxilan)、アメリカ・美国(Meiguo)、スペイン・西班牙(Xibanya)、フランス・法国(Faguo)、ドイツ・德国(Deguo)、イタリア・意大利(Yidali)というらしい。

 まさにこの時代、日本は戦争への道を邁進していく。1931年(昭6年)満洲事変、1932年(昭7年)五・一五事件、1933年(昭8年)国際連盟脱退、1936年(昭11年)二・二六事件、1937年(昭12年)盧溝橋事件で日中戦争に突入。1938年(昭13年)国家総動員法、1940年(昭15年)日独伊三国同盟、1941年(昭16年)真珠湾攻撃を経て、太平洋戦争開戦。

 思えば、そんなキナくさい時代を、父はオーストラリアやニュージーランドで羊たちに囲まれて農業技術を磨いていたのだ。

 1942年(昭17年)7月、父は中華民国華北綿羊改進会技正として中国の合弁会社へ赴く。高等女学校を卒業したばかりの18歳の母と結婚して中国へ渡航した時は、すでに中国は日本の占領下だったためパスポートはいらなかったのだろうか? そして翌年、私は北京で生まれた。

 その時の結婚の経緯が、ひどい話なのだ。父の結婚相手を見つけるため、父の伯父が第一高等女学校の校長室を訪れ、「甥の嫁になる相手を3人ばかり見繕ってほしい」と頼んだという。校長も校長だ。卒業生3人を推薦したのだ。父はその中から一番背の高い母を選んだとか。朝ドラの「虎に翼」の猪爪寅子(伊藤沙莉)じゃないけど、「はて?」と、なるわ。「見繕ってくれなんて、モノじゃあるまいし、男たちは女をなんと思っているのか」。子どもの時、大人たちが笑い話のようにその話をしているのを聞いて、子ども心に心底、腹を立てたことがあった。

 日本初の女性弁護士で、後に裁判官となった三淵嘉子をモデルにしたNHK朝のドラマが話題だ。寅子の痛快な生き方に胸がすく思いがする。三淵嘉子が弁護士になったのが1938年(昭13年)。当時に比べて果たして今、女たちは、ほんとに自由になったのだろうか?

 父の古い履歴書を見ると、1936年(昭11年)宮崎高等農林学校畜産学科卒業。同4月、農林省北海道月寒種羊場勤務。1937年(昭和12年)福岡県種畜場勤務。その間、オーストラリアとニュージーランドに派遣され、1942年(昭17年)中華民国へ渡る。中国では強いお酒と麻雀を覚えたらしい。戦後、私が物心ついた頃、父が町の雀荘にふらりと入り、賭け麻雀でいつも勝って帰ってきていたのを、かすかに覚えている。

 戦後、帰国して大阪南部の淡輪で、旧「満洲」からの引揚者たちと共に山を開墾、種畜農場を開いて場長となる。その後、農場は南海電鉄のゴルフ場となり、父は大阪府農林部畜産専門技術員となる。定年後、熊本に帰るが、若い頃からの飲酒がたたり、肝硬変のため、57歳で亡くなった。

 私が結婚して千葉に住んで3カ月後、「父が倒れた」と母からの知らせがあり、毎日のように届く手紙をハラハラしながら読んでいたが、6月、「危篤」の知らせを受けて身重の私は飛行機に飛び乗り、実家に戻って父の最期には間に合った。その四十九日後に娘が生まれてきた。父は給料のことも何一つ知らない母を気遣ってか、死後3日目に夢に現れ、「あとはよろしく頼むぞ」と私に言い残して、障子の陰にスーッと消えていったことを思い出す。

 さて「家の中を片づけなくちゃ」と箪笥の引出しを開けると、きれいにクリーニングしたセーターやコートなど、母の服がいっぱい入っている。まだ着られそうな品を何点かダンボールに詰める。古いアルバムも整理されてたくさんあった。子どもの頃の写真や卒業アルバム、私の結婚式の写真まで出てきて気恥ずかしいけど、孫が楽しそうにスマホで写真を撮っている。大事なアルバムだけを取り置きして、服といっしょに何箱かに分けて京都へ送る。訪ねてきてくれた従姉妹に車で運んでもらって、ほんとに助かる。

 56年前、親の反対を押し切っての結婚だった。新婚旅行で九州を回り、実家に寄って帰りの夜行列車が出発する時、父はホームで元夫の手を強く握って、「娘をよろしく頼むな」と声をかけたのが、今も耳に残っている。結婚10年後、癌を患った義母の看病のため、私が自ら望んで千葉から京都へ移り住んだ時も、母は反対した。「娘が苦労するのを見るに忍びないから」ではなく、「嫁」として「姑」に仕えることが母には気に入らなかったのだ。これもまた、朝ドラの「虎に翼」の寅子の母・はる(石田ゆり子)の啖呵じゃないけど、気の強い母なりに「家父長制」に反対していたのかしら? だから20年後、元夫とは嫌いで別れたわけではないけれど、私が離婚を選択した時、「離婚はよくないけど、彼と別れたのはよかったわ」と母はサラリと言った。

 さて家の中は一応、確認できた。相続後3年、「空き家の発生を抑制するための特別控除」特例は、6年前に京都に呼び寄せた時、住民票を京都に移しているので該当しないだろうと思う。熊本市に問い合わせると、江津湖周辺は埋蔵文化財が出てくるかもしれない土地で、試掘をしないといけないらしい。風致地区なので建ぺい率30%、植栽も一定決まった樹を植えないといけない。それに世界有数の台湾の半導体メーカー「TSMC」が熊本県菊陽町にやって来るので、何かと姦しい。

 もう一軒、現在97歳、元気に京都で暮らしている叔母の家が、そのままになっている。熊本駅に近い古町にあり、150年前の「西南戦争」で、西郷隆盛と官軍の熊本鎮台司令長官・谷干城との熊本城攻防戦の火が2階から見えたという古い家。2016年の熊本地震では、隣のお寺が全壊したのに叔母の家はビクともしなかったのだ。箪笥、長持がいくつもあり、戦後、洋裁店を開いた伯母と叔母のために、アメリカに住む遠い親戚から送られてきたSINGERミシンが3台もある。叔母が元気なうちは、そのままにしておこうと思うが、これもまた大変だ。それまで私も何とか元気でいなければ、と思う。

         熊本城

        ホテルのくまモン


 家の片づけの合間に、娘と孫といっしょに熊本城へゆく。熊本地震から8年、天守閣の修復も終わり、石垣の一部はまだ崩れたままだが、大勢の観光客で賑わっていた。そして、くまモンにも会いにゆく。ホテルの正面玄関には、くまモンが受付に座っていた。以前と違って、街の中心街が少し変化している。通町筋から辛島町のブランドショッピングモール「サクラマチ・クマモト」へと、若い人たちの流れが変わっていた。熊本駅前も改装され、連日イベントが開かれている。路面電車の市電は、どこまで乗っても180円と安い。外国人旅行客が大勢、大きなトランクを抱えて乗ってくる。

 ようやく京都へ帰ってきた。そろそろ桜も見頃。御所や鴨川沿いのお花見に出かけてみようかな。人波の少ないところを選んで。

 はてさて、今回のエッセイは個人的なことばかりで、みなさま、ごめんなさい。父と母のことを、あれこれと書いてしまって。きっと父と母も怒っているだろうな。二人にガツンと叱られる前に天国の父と母に向かって、「余計なことばかり書いて、ごめんね」と謝っておこうかしら?