ああ、なんということだ。師走の30日からお正月にかけて風邪で発熱。ダウンして年始から寝正月となった。ああ、しんど。
12月末、パソコンの仕事が立て込み、ようやく仕上げてデータを送ってホッとして、27日はコンサートホールで「第九」の演奏を楽しみ、「さて、お節料理の買い物へ行かなくちゃ」と出かけたのが29日。四条のタベルトで新鮮な魚介類と野菜、練り製品、ハムとチーズなどを買い求め、牛肉は30日、三嶋亭に娘が2時間並んで買いに走る。近くのお米屋さんに頼んでおいた小餅を受取り、年越し蕎麦の材料やお菓子など残りの買い物は近くの生協で買い足した。
30日、いつものお節料理の品々をつくる。数の子、タラコ、海老の煮つけ、サワラの白味噌漬、牛肉の時雨煮、昆布巻き、牛蒡のタタキ、筑前煮、栗きんとんとさつまいもの包み。柿なます、黒豆、ゴマメの甘辛煮、ロースハムに焼き豚、生ハムにフランスのフロマージュ・ドゥ・ミテスのチーズ、厚焼き卵に蒲鉾などなど。それに白味噌雑煮の下ごしらえをつくり終えてホッとしたら、なんだかゾクゾクと寒けがしてきて、熱を計ると37℃~38℃をいったりきたりしている。これはいけないと慌てて寝ることにする。
年末で家庭医もお休み。京都府の救急外来相談室に電話をかけても、なかなかつながらない。やっと通じて看護師さんに相談すると、「40℃近くまで上がらないなら、コロナかインフルエンザではないかもしれません。救急外来は長蛇の列で病気がうつる可能性があるので、家で水分をとって安静にしていた方がいいですよ」とのこと。「熱が上下するのはウィルスと体内の免疫力が闘っているからです」と。少し残っていたカロナールを飲んでも熱は下がらないのだ。
大晦日。ようやくお重を詰めて夕方、叔母の分を小ぶりのお重に取り分け、お餅と年越し蕎麦を用意して食べてもらう。娘と孫娘と私は、近くの娘の家へ車で荷物を運んで3人でお正月を迎える。紅白歌合戦もほとんど見ずに、年越し蕎麦も半分しか食べられない。もう諦めて、あとは寝るだけの時間。
元旦は娘と孫とお祝い膳を囲み、2人は近くの元夫のもとへお年始に出かける。彼もまた腰痛で年相応にぼつぼつと暮らしているようだが、何とか元気でいるらしい。娘と孫は恒例の八坂神社と近くの長楽館で「ガレット・デ・ロア」をいただき、清水のあたりをめぐり、あとはお買い物をして夕方、帰ってきた。薬局で薬剤師さんに聞いてイブプロフェンの入った市販薬を買ってきてくれた。それを飲んだら、ようやく熱が下がったみたいだ。
2日、家に戻り、叔母の部屋の片づけと、お節料理に火を通して同じマンションの男友だちの囲炉裏のある部屋で、みんなでお正月を祝う。ちょっと胃の調子が弱っていたのか、御馳走を少し食べた後、炭火で焼いた小餅をちぎって口に入れたら喉は通ったのだけど、食道の途中でお餅が止まっているようだ。「肩甲骨の間を強く叩いて」とトントンと叩いてもらうと、胃にお餅が何とか落ちてホッと安心した瞬間、フッと気を失う。気がついたら娘が電話で119番にかけている。「大丈夫よ」といったが、お正月から救急搬送されて第二日赤へ。CT撮影で肺も食道も異常なしで、すぐに帰された。救急搬送はここ数年で2度目だ。「もういい加減、歳を考えて」と娘には叱られるし、私の不始末でみんなに迷惑をかけてしまい、さすがに、ちょっと落ち込む。だめだなあ。しっかりしなくっちゃ。
この2月で98歳になる叔母に風邪をうつしてはいけないので部屋へ食事を運んで、しばらく1人で食べてもらう。幸い叔母は元気で、お正月明けにはデイサービスに通ってくれて、助かる。97歳と9カ月で3年前に逝った母を超えて叔母が元気でいてくれるのが、ほんとに、ありがたい。
去年11月末、熊本にある母の家と庭をようやく手離すことができた。去年の春、熊本へ出向いて、不動産屋に依頼して夏に契約。石牟礼道子さんが晩年住んでおられた江津湖のほとりの住宅地。埋蔵文化財が出るかもしれないとかで熊本市が試掘したら、石器時代の土器が出てきたのだ。その手続きや隣地との境界線の再確認、庭の樹木や家屋の解体手続き。井戸終いや仏壇の魂抜き。台湾の半導体メーカー(TSMC)が菊陽町に来るとかで、すぐ買手はついたが、緑化地区で建ペイ率30%が条件。一部、樹木も残さないといけないとか。司法書士、測量士、解体業者とのやりとりや電気、ガス、水道、電話線の撤去など、煩雑な手続きに追われ、決裁時、熊本へ行こうと思っていたが、日程がギリギリまで決まらず、委任状や必要な書類をPDFのメール送信で済ませて、ようやく11月22日に決裁終了。同日、すべての支払いを済ませた。
実は、あとまだ叔母の家が熊本にあるのだ。西南戦争で西郷隆盛と谷干城が闘った熊本城の戦火が2階から見えたという、150年前の古い家。何棹もの箪笥と長持ち、古い仏壇がある。そして戦後すぐ伯母と叔母が自立して洋裁店を開いた時、アメリカに住む親戚から「vogue」とともに送られてきたシンガーミシンが3台、残っている。この春、また熊本へ出かけて少し片づけをしなければと思うが、従姉妹の話ではイタチが住み着いているらしい。この家を片づけるまで私もまだ、あともう少し元気でいないといけないかな。
そんな中、12月15日、みやこメッセへ『水俣・京都展』(主催:水俣フォーラム)に出かけた。膨大な資料や写真、そして主催者の思いが、見る者に、まっすぐに伝わってくる展示の数々に圧倒される思いがする。
メイン展示の中の石牟礼道子さんの「エピローグ」の言葉が胸を打つ。記録映画作家の土本典昭夫妻が1年間水俣に滞在し、800軒の遺族を訪ねて遺影を収集。1000点以上の患者の遺影がずらりと飾られ、死者たちが来場者を、じっと見つめている。W・ユージン・スミス+アイリーン・M・スミスの写真や桑原史成「水俣病・原点から」、塩田武史「水俣・深き渕より」、芥川仁「水俣・厳存する風景」などの写真展示も圧巻だ。
その発生に人類が気づいて、すでに70年が経つ。しかし今なお、水俣病が解決したとは言えないのだ。
そして水俣病ブックフェアで、ふと目に止まった本があった。杉本星子・西川祐子編『鶴見和子と水俣 共生(ともいき)の思想としての内発的発展論』(藤原書店・2024年2月28日)。去年6月に惜しくも亡くなられた西川祐子さんの最後の著作になるのではないか。本書は、日本学術振興会科学研究費基盤(B)の助成による共同研究の成果報告書『鶴見和子文庫から共生の思想を問う-萃点としての水俣』に基づいて編集されたもの。17人の執筆者の熱意あふれる見事な論文の一つひとつを、心を奪われるようにして読み込んでゆく。
鶴見和子さんと水俣との出会いには石牟礼道子さんの呼びかけがあったのだという。石牟礼道子さんが東京に出向いて、直接、訴えられたとか。「(水俣の)実態を見てくださいという意味で、色川大吉先生と日高六郎先生にお願いしたんです。それは近代化論の再検討というのがいかなるものか、それはどのように組立てられるのか、私たちの現場に一つのサンプルがございますっていう意味だったんですけれど」と鶴見和子さんとの対談で、石牟礼道子さんは後に語っている。
やがて1976年3月、色川大吉を団長とし、鶴見和子が副団長となった「不知火海総合学術調査団」が結成され、多くの人々が水俣に何度も足を運び、調査が開始されてゆく。
本書については、またの機会に詳しく書きたいと思うが、関連年表を含めて実にすばらしい資料が、びっしりと詰まっている。
鶴見和子さんは、1995年、77歳の時に脳内出血で倒れ、2006年、88歳で亡くなられた。その後、残された膨大な蔵書と資料が京都文教大学へ寄贈され、本書にも、その蔵書の数々が紹介されている。
鶴見和子さんは晩年、片手に麻痺が残り、リンゴの皮を剥けなくなったけれど、それを工夫してリンゴに軸を通してグルグル回転する道具をつくられたとか。「動く方の手にナイフをもってリンゴをグルグル回したら、リンゴの皮が上手に剥けるのよ」と語っておられたのを、どこかで読んだ記憶がある。さすが鶴見和子さんだ。本物の知識と暮らしの知恵を結びつけて即、実行されるなんて、なんてすばらしい方なんだろうと感嘆したことがあった。
さて、今年はどんな年になるのやら。あまり希望は見えないけれど。日本の政治はもちろんのこと、アメリカもトランプが就任すれば「アメリカ第一主義」しか考えないのだろうな。私の暮らしにも何が待っていることやら。
でも、決して諦めないぞ。許せないことには絶対に負けないからね。そんなふうに今年も一日一日を精進しながら、もう少しだけ、ぼつぼつと生きていこうかなと思っている。
年のはじめに、個人的な、みっともない話ばかりを書いてしまって、ほんとにごめんなさい。来月はもう少し楽しいことを書きますから、お許しを。
どうか、みなさまも「よい新年をお過ごしになりますように」と願いつつ、とりあえず今回は、このへんで。みなさま、本年も、どうぞ、よろしく。