[tmkm-amazon]4091885098[/tmkm-amazon]この物語は、殺人犯と殺人教唆した二人の女性の、逃避行の物語だ。殺した女は、同性愛者である。殺させた女は、貧困・父と夫からの性的虐待・家庭内暴力に蝕まれ続けている。 この二人の主人公は、家父長的封建社会と、それを維持するための異性愛・他者への不寛容のシステム、分断された家庭という檻の中に、順応しきれぬ女たちの、究極な形での戯画である。 彼女達は、死ぬか、自首するかを、自らに、互いに、何度も問い直す。それは、生死の問題ではない。その社会を完全に拒否するか、その中で生きていくことを選ぶかの、実存の選択なのである。 元々親しい間柄ではなかった二人は、二人だけでは答えが出せない。 殺す前、殺させる前の自分たちの影を引きずったまま、自縄自縛に陥ってもがき苦しむ。 硬直状態が破れるのは、二人の前に、第三者が姿を現してからだ。
第三者とは、この本では、互いの家族や恋人・・無視できない濃い縁と愛情を持ちながら理解しあえない人間たちとして登場する。

棄ててきた家族という檻で、再び疎外されあいながら、二人はようやく歩を進める。
彼女達の旅は終わる。 全ての旅がそうであるように、彼女たちの物語は、行って、還ってくる物語である。全ての人が願うように、二人もここではないどこかへ行きたいと願い、旅立ち、そうして帰還する。誰も、どこへも、行けはしない。 二人を取り巻く状況は、変わらず過酷なままである。社会は変わらない。 しかし、彼女たちが選んだ結末は、敗北ではない。 彼女たちは、自分達を追いこんだ残虐な力の総体に屈したのでもなければ、妥協を見出したわけでもない。 彼女たちが、変貌したのだ。
旅、つまり異質な他者 (二人にとって、互いも他者である) との出会いによって、そこにいるままで、同じ場所が、新しい姿を現したのだ。

それこそが、旅の本質であると思う。
また、この本にいては、性交が多様に描かれていて、興味深い。古典的な、怒張した拳替わり=支配の道具や肉体的快楽などの、愛情や共感と切り離した性交というものを正確に描く一方で、労りの共有、情報量の多いコミュニケーション手段としての交接も丁寧に書き込まれており、肉体と観念の間で、雑多な様相を呈している性行為の概念が非常にリアルに感じられる。 上・中・下、あわせて1500ページにも及ぶ大作で、緻密に練られた伏線、比類ない画力で描きだされる心理描写の巧みさ、繊維さは、圧巻というほかはない。女たちの、血と涙にまみれた裸足のエンパワメントの物語であり、どこにも帰らない究極の旅の物語である。 この記事に関連する記事 痛い物語るを読む「贅沢さ」