2010.12.17 Fri
各地で強い感銘を与えてくれたキテイさん。裏話も含め、東京・京都から若手研究者が報告します。
お茶の水女子大学(11月13日)から
お茶の水女子大では、予想をはるかに上回る数の予約をいただき、最後のほうは申し訳なくお断りする事態になった。キテイさんのご講演への関心はもとより、コメンテーターが江原由美子さん、司会が牟田和恵さん、そして通訳が岡野八代さんという顔ぶれでは、マニアックな(?)フェミニストならずとも垂涎ものである。
前日に開催されたキテイさんを囲む東大のワークショップでは、牟田さんが家族社会学の立場から、および岡野さんが政治思想史の立場から『愛の労働』における議論を位置づけ、意義を明確化したことに大いに知的興奮を覚えたが、本講演会では、江原さんが、広く日本のフェミニズムの状況に照らしてキテイさんの議論がもつ意義と可能性を的確に指摘し、そのあまりの見事な説得力にはもはや感嘆のため息…でした(その素晴らしい議論の詳細な内容は、来春刊行予定の、エヴァ・キテイ講演録『ケアの倫理からグローバルな正義へ』(白澤社)に収載されます!!)
ここでは、どこにも記録として残らない裏話を…。
講演会後の懇親会では、キテイさんの提案で、自分がフェミニズムを研究するきっかけとなったフェミニストを、それぞれ挙げることになった。30代から60代までいるとなると、「フェミニスト」として括っているとはいえ、世代の違いに一同あらためて驚き!そうして宴は大いに盛り上がる。そんな光景を眺めながら、ふと、ある言葉が思い浮かんだ。「フェミニストもみな誰かフェミニストの娘である」、なぁんて…。そんなことを考え、やさしい気持ちになった夜だった。
巡り巡って、そうやって私たちみんながつながっているという、このあたたかいやさしい感覚が、時には、現在支配的な政治哲学の核心へとずばり切り込んでいく鋭利な批判の視角ともなりうる。このしなやかなフェミニズムの視角こそ、今回、キテイさんの議論を通して学んだ一番の収穫だったかもしれない。(山本千晶)
同志社大学(11月10日)から
2010年11月10日(水)、エヴァ・キテイさん(ニューヨーク州立大学ストーニー・ブルック校哲学科教授)をお招きして、「ケアの倫理からグローバルの正義へ」と題された講演会が、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科と大阪大学人間科学研究科の共催で、行われました。平日の夜間という時間帯にもかかわらず、多くの方々が来場されていて、ケアに対する関心の高さがうかがえました。キテイさんは、フェミニスト哲学者として、西洋の伝統的で、白人男性中心主義的な人間や主体の概念に対する批判を通じて、人間や社会の本質とは何かを長年にわたって問い続けておられます。また近年は、重度の知的障碍を持つ娘のセーシャをケアするという自身の経験と、ケア労働に従事する多くの女性たちの苦境に思索を巡らし、ケア、ケア提供者、ケアされる人の問題を正義論に組み込むことに取り組んでいらっしゃいます。
さて講演の内容なのですが、大きく3つ―(1) キャロル・ギリガンと『もうひとつの声』としてのケアの倫理、(2) 不可避的な人間の依存を基盤とした人間の平等と正義論、(3) 公正で思いやりのあるケアを全ての人へ提供するグローバルな社会に向けて―に分けられます。以下、私が独断と偏見で各部分の内容をまとめました。
(1) キャロル・ギリガンと『もうひとつの声』としてのケアの倫理
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ハーバード大学の心理学者のキャロル・ギリガンは、自著『もうひとつの声』(原題:In a Different Voice: Psychological Theory and Women’s Development、Harvard University Press、1982年)(岩男 寿美子訳、川島書店、1986年)で、女性の道徳的推論とその背後にあるケアの倫理について論じた。ギリガンは、女性の道徳的発達は男性に劣っていると結論付けたローレンス・コールバーグの調査に疑問を抱き、望まない妊娠をして中絶という選択肢に直面した際に女性たちがどう判断するのかを調査し、女性の道徳的発達モデルを構築しようと試みた。その結果、彼女は、女性が他者とのつながりを非常に重視することを指摘し、女性は道徳的推論に劣っているのではなく、違う推論をするのだ、という結論を出した。そして、この「異なる声」には、倫理的な価値があると主張したのである。
ギリガンは、コールバーグのモデルを正義概念に基づく倫理を反映したもの、自らのモデルをケアの倫理を反映したものとして対照的に位置付けた。正義の倫理とは対照的に、ケアの倫理は、関係性の中にある自己の前提、物事の個別性や文脈依存性を最大限考慮する思考方法、感情に注意を払い特定の条件下では特定の個人を重視することを是とする判断基準によって特徴付けられている。このようにケアの倫理は、私たちが常に依存と相互依存という不均等な力関係を結んでいると考えることによって、現実の不平等に応える力を持ち得た。そして、それ故に、ギリガンの主張はジェンダー本質主義的であるとの批判にさらされたにもかかわらず、日々そうした不均衡な力関係や立場の違いに対して自覚的にならざるを得ない多くの女性たちの心の琴線に触れたのである。
(2) 不可避的な人間の依存を基盤とした人間の平等と正義論
フェミニスト哲学者、そして重い知的障碍と発達障碍を持つ娘の母親であるキテイさんにとって、ケアの倫理と正義の倫理の理論的両立は長年の課題であり、著書『愛の労働』(原題:Love’s Labor: Essays on Women, Equality, and Dependency、Routledge、1999年)(岡野八代・牟田和恵監訳、白澤社、2010年)誕生のきっかけとなった。理論的両立の鍵は、人間の依存という事実を出発点に正義論を再構築することであった。伝統的な正義論において、この事実はあまりにも見過ごされたために、不回避的な依存者―幼児、高齢者、様々な障碍者や病人等―のみならず、これらの依存者をケアする女性たちもがその射程から排除されてきた。ケア提供者(ケア提供は女性が担うものというジェンダー役割規範の悪影響により、未だにその圧倒的多数が女性)は、その(ケアを提供するという)労働の特質上、他者のニーズに敏感な「透明な自己」になり、自分自身のニーズを一時的に脇に置かざるを得ない。そのため、ケア提供という労働への対価として彼女たちへの支援がなされない場合、社会的に構築された依存状態に陥る。ここで、不回避的な人間の依存と社会的に構築された依存との違いが重要となる。不回避的な人間の依存が人間であるがための帰結であるのに対して、社会的に構築された依存は、ケア労働者の負担が利益を上回る状況下でのケア提供の結果であり、政治的・社会的な改革によって回避可能なのである。つまり、人間の生存・成長には不回避的な依存者のケアをする依存労働者の存在は絶対に必要だが、その役割を「個人的な義務」として誰かに強制することがあってはならない。他者とのつながりを重視するケアの倫理は、ケアを無償で提供し、自分自身を犠牲にすることを要求するものではないからである。
そのため、第三者ひいては社会全体で、依存労働者を支援しなくてはならない。これらの(不回避的な依存関係を結ぶ二者以外の)抑圧的になり得る利害関係者にこの集団的・社会的責任を道徳的に義務付け、確実に果たさせるためには、人間の依存を前提とした平等の再概念化、不回避的な依存の社会的な貢献の認識、不回避的な人間の依存という事実を前提とした互酬の再概念化という三つの認識論的な発想の転換が不可欠となる。これらの発想の転換は、「みな誰かお母さんの子供」という表現に集約される。そして、不回避的な依存者が依存労働者のケアにお返しできない以上、依存労働者に対する公の支援が特に求められる。ただ、ここで、不回避的な人間の依存という事実を前提とした互酬の再概念化という第三の転換を経ると、依存労働者へのケアというこの社会的責任を互酬という概念で表すことが可能になる。この新しい互酬概念では、ある依存労働者を社会的に支援することを、ケア―社会を現在構成している人々に対して過去の依存労働者が提供したケア、ひいては潜在・顕在的に不回避的な依存者である全ての人々に対して(このある特定の依存労働者をも含む)全ての依存労働者が提供したケア―に報いることと考える。この新しい互酬の概念を、出産直後の母親が新生児を自らの手でケアできるように彼女をケアするケア提供者ドゥーラにちなんで、ドゥーリアとキテイさんは名付けられた。
(3) 公正で思いやりのあるケアを全ての人へ提供するグローバルな社会に向けて
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人間の依存という事実を前提として、(ケアに対する社会的責任を求める)ケアの公的倫理を内包したこのような正義論は、その射程を国民国家からグローバル化が進む世界へと拡大しなくてはならない。ケアを担うために国境を渡る外国人・移民労働者の問題を考えると、これは急を要する。ここでの最大の被害者は、最も貧しい地域の最も恵まれない女性たちとその家族内の不回避的な依存者である。さらに、この階級・国境横断的ケアの委譲とケア労働者の移住は、ケア提供に対する需要と家族のために稼ぎたい女性たちによる労働力の供給の両方によって引き起こされている。だが、後者は、構造的な貧困などのグローバルな不正義によってつくられている。つまり、国民国家のみを射程に入れたケアの公的倫理に基づいた社会は、「ドゥーリアの権利」(ケアを受ける権利と、ケアをするときには支援を得ることのできる権利)を、その市民にしか与えて保障しないし、外国から来たケア労働者からこの権利を不正に奪うことでしか保障できない。全ての人にドゥーリアの権利を与えて保障するには、どのような世界が公正かという、正に正義論の範囲内にある問題に取り組まなければならない。このように、当初、正義に基づいた倫理とケアの倫理は対立的なものとして考えられてきたが、今、ケアと正義は相互補完的なものとなっている。グローバルなケアの正義を実現しない限り、身近に公正なケアを実現することはできない。
このような内容の講演の後、活発な質疑応答が交わされました。個人的に面白いなと思ったのは、 (1) 「透明な自己」になることができても、ケア提供者と依存者との衝突は起こるのではないか? (2) 広義/狭義のケア概念がそれぞれ必要な場合とはどのような場合か? (3) 支配関係とケアを介した依存関係を峻別するものは何か?の三つの質問です。それぞれに対して、キテイさんの答えは次のようなものでした。 (1) 勿論、このような衝突の可能性は残る。だからこそ、ケアされる人が本当に喜んでいることを確証する必要があるし、確証されてはじめてケアが完遂されたと言える。 (2) 狭義のケア概念は、各々のケアの状況の個別性・文脈依存性を重視し、各状況を区別することを求める。一方、広義のケア概念は、無償で家事労働に従事する主婦と連帯して、ケアの社会的評価を高める運動をする際に必要となる。 (3) 理論的には、ケア提供者が、自分の善の考え方をケアされる者に押し付けた場合、それは強制であり支配である。しかし、現実には、峻別するのは非常に難しい。
追記:キテイさんの講演は、学問的に非常に洗練され、示唆に富む一方で、ケアのやり取りという一連の日常的な行為を通して、いかに私たちが他者に(時には一方的に)依存し、他者とのつながりの中で生きているのかを実感させてくれる感動的なものでした。また、人間社会が存在するのは不回避的な依存者を守り養うためであり、これは不回避的な依存者と依存労働者が果たす最も根源的な社会的貢献であるというキテイさんの主張には、目から鱗が落ちるようでした。政治学に馴染みのない私にとって、正義論は非常に抽象的で、ある意味では机上の空論になりかねないものというネガティヴなイメージがあったのですが、ケアのやり取りという私には馴染みがあり、そして、それ故に見過ごすこともある一連の行為・経験から導き出されたキテイさんの正義論は具体性があって、思わず何度も頷いてしまうものでした。私自身は日々のケア労働から「逃れる」ことを文化的に許容されている「男性」なので、このようなことを言うのは大変差し出がましいのですが、キテイさんの講演を聞いて、ケア労働は身も心も擦り減らすような大変な仕事で、金銭的な見返りも殆どないけど、(実際にその能力があるかどうか等は別として)ケアを日々提供する職に就きたいなと思うようになりました(勿論、ケア労働者に対するドゥーラ的な役割もしっかりと果たせるよう精進しますが…)。最後に、この拙く長い文章をここまで読んで下さった方々にお礼申し上げます。ありがとうございました。(雪見七竈)
カテゴリー:ケア・労働・正義
タグ:フェミニズム / フェミニズム、家族、ケア
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