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[WAN的脱原発](12)ヒロシマとフクシマのあいだ① 加納実紀代

2011.08.28 Sun

*はじめに

テレビをつけたら、白装束姿の白髪の女性が映った。春風の中を行くお遍路さん、と思ったらとんでもない、わが家に「一時帰宅」する原発被災者たちだった。いちばん安全でくつろげて、安心して裸になれる、それが<わが家>というものではないのか? そのわが家に帰るのに、物々しい防護服に身を固めなければならないとは!

無力感が胸をかむ。なぜヒロシマはフクシマを止められなかったのか・・。1945年8月6日、わたしは広島で被爆した。わたしの記憶の原点にはヒロシマがある。わたしの人生は被爆者手帳とともにあった。そのわたしにとって、原爆と原発は別物ではない。3・11以後のフクシマは8・6ヒロシマにつながっている。

「被爆国ニッポン」がなぜ原発大国になったのか? この問いは、3・11後、国内よりも国外から多く聞かれる気がする。70年代に被爆者への聞き取りをふまえて大著『ヒロシマを生き抜く』(岩波書店 旧題『死の内の生命』)を著したロバート・リフトンも、4月15日の『ニューヨーク・タイムズ』で、原爆と原発の同質性を言ったうえでこの問いを立てている(「フクシマとヒロシマ」)。その答えとしてリフトンは、政・官・産業界のなれ合いのもと、原発推進勢力が原発と原爆は違うという認識を浸透させたからだと言う。

夏の花・心願の国 (新潮文庫)

著者/訳者:原 民喜

出版社:新潮社( 1973-08-01 )

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文庫 ( ページ )

ISBN-10 : 4101163014

ISBN-13 : 9784101163017

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わたしにとって<原発=原爆>は自明だが、どうやら一般にはそうではないらしい。たしかにヒロシマとフクシマの間には違いもある。わたしの記憶にあるヒロシマはすさまじい熱線と爆風により「パット剥ギトッテシマッタアトノセカイ」(原民喜『夏の花』)であり、ただ瓦礫の中に黒焦げ死体が累々と転がっていた。今回も同様にいのちも暮らしも「剥ギトッテシマッタ」が、あとには膨大な残骸がある。流された車や押しつぶされた家、瓦礫のなかにはおびただしい数のテレビ、冷蔵庫、洗濯機等の電化製品が堆積している。

ヒロシマにはそんなものはなかった。焼けてしまったからではない。もともとなかったのだ。そこから始まったわたしの暮らしも、いまや電気がなければ厄介なゴミにすぎない電気製品に取り囲まれている。この地震列島の海岸に建つ54基もの原発と無縁ではないということだ。ヒロシマとフクシマのあいだのこの違いはどのようにして生み出されたのだろうか? どのようにして原発推進勢力は、被爆国民に原発を受け入れさせたのだろうか? 「フクシマ以後」を考えるにあたっては、一度それを丁寧にみてておく必要があるように思う。

*誓フ 科学精進

「未曾有の国難」、「総動員体制」、「疎開」・・。3・11以後こんな言葉が飛び交った。アジア太平洋戦争末期、まさに「国難」状況で流布された言葉である。「国難」となれば天皇が登場する。今回の天皇夫妻の被災地慰問は、昭和天皇の戦後巡幸に重ねあわされた。「戦のわざわひうけし国民を おもふ心にいでたちて来ぬ」という昭和天皇の「御製」に通じるという記事もあった(富岡幸一郎「天皇「被災地巡幸」の御心」『週刊ポスト』5月13日号)。

わたしも昭和天皇を思い浮かべた。しかしそれは戦後巡幸ではない。敗戦直後の1945年9月9日、疎開先の皇太子(現天皇)に出した手紙である。そこには敗因についてホンネが書かれている。

「今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつたことをいふことになるのでひかえて居つたことをゆるしてくれ
敗因について一言いはしてくれ
我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである
我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである」

近代日本は「和魂洋才」を言ったが、この発言は「和魂」否定ともとれる。「科学を忘れた」が、原爆を念頭に置いているのはいうまでもない。8・15の「玉音放送」には「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ」とあるが、「玉音」のあと放送された内閣告諭では「遂に科学史上未曾有の破壊力を有する新爆弾の用いられるに至りて戦争の仕法を一変せしめ」と原爆の「科学史上」の意義を強調している。

新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)

著者/訳者:山田 風太郎

出版社:講談社( 2002-12-13 )

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ISBN-10 : 4062736322

ISBN-13 : 9784062736329

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それを受けてのことだろう。8月15日の庶民の日記には「科学」に言及したものが多い。例えば、軍需工場で働いていた箕輪正三(26歳)の日記には、「一個の原子爆弾がこの戦争に決を与へたのだ、敵の科学技術力に破れたのだ。噫々遂に我等敗る」とある(『昭和二十年夏の日記』博文館新社 1985年)。当時医学生だった作家山田風太郎の『戦中派不戦日記』(講談社 1973年)では、8・15当日は「帝国ツイニ敵ニ屈ス」とのみ、翌16日にほとばしるような筆致で長文を書いているが、その中にこんな文章がある。「・・日本は再び富国強兵の国家にならなければならない。(略)苦い過去の追及の中に路が開ける。先ず最大の敗因は科学であり、さらに科学教育の不手際であったことを知る」。

女学校3年の軍国少女の日記はもっとすさまじい。「有史以来の残虐なる武器、原子爆弾の使用は、遂に、戦争の終結を見るに到った。我は完全に科学戦に於て破れたのだ。さうだ、科学戦に於て、日本を、更生再興させるものは、科学の力だ。之からは国民の誰もが、科学に重きを置き、科学の力を養って行かねばならぬ」。そして最後に「誓フ科学精進 八月十五日」と血書されている(栃折妍子「誓フ科学精進」『銃後史ノート』通巻9号)。

もちろん敗戦の衝撃による一過性のものもあるだろうが、永遠に続くかと思われた戦争を終わらせた原爆は、多くの国民の胸に科学の威力を刻みこんだといえるだろう。とりわけ竹槍と神風で必勝を信じさせられていた若い世代にとってはそうである。それはアメリカの威力でもあった。戦後日本は「洋才」による「更生再興」を目指して出発する。フクシマ以前の「科学技術大国ニッポン」はここに始まる。

編集部より:

本稿は、インパクション一八〇号 特集「震災を克服し原発に抗う」2011年6月25日刊(1500円+税) に掲載された「ヒロシマトフクシマのあいだ」を、WANのために再編集していただいたものです。

初出のインパクション一八〇号には他にもジェンダーの視点からの震災・原発関連論文が多数掲載されています。








カテゴリー:脱原発に向けた動き

タグ:脱原発 / 原発 / 加納実紀代 / 広島