原発ゼロの道

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[WAN的脱原発](14)ヒロシマとフクシマのあいだ③ 加納実紀代

2011.09.03 Sat

*原子力平和利用博覧会とメディア

1955年という年は日本の平和運動史にとって画期的な年である。先述のように原水禁運動の高まりをうけ、被爆10周年の8・6に広島で原水爆禁止世界大会が開かれたが、これにはアメリカ、ソ連、中国など14ヵ国52人の代表を含め5000人が参加した。それを契機に原水爆禁止日本協議会(原水協)が発足し、後に分裂するとはいえ日本の反核運動の中心になる。被爆者にとってもこの年は画期的な意味を持った。広島では1945年からの10年は「空白の10年」と言われ、被爆者たちは何の支援もないまま原爆後遺症と貧困と差別の中に放置されていた。世界大会を機にようやく連帯と援護の動きが出て、翌年8月に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が結成される。日本の女性平和運動の中心・日本母親大会も55年に第1回大会が開催されている。当時の資料を見ると、1955年の日本は平和づけの感がある。

しかしその中で「原子力の平和利用」も大きく動き出している。「広島原発」は幻に終わったが、イェーツ議員が「広島原発」を提案した同じ1月末、アメリカ政府は秘密裏に日本政府に濃縮ウラン提供を申し入れ、「公開・民主・自主」の原子力3原則に反すると懸念を示す日本学術会議をよそに、11月正式調印される。12月、原子力三法(原子力基本法・原子力委員会設置法・原子力局設置法)成立。56年1月、原子力委員会発足。

あとはどうやって原水禁運動で盛り上がる被爆国民を納得させるかである。メディアの「平和利用」推進の動きが強まる。中心は『読売新聞』である。社主正力松太郎は54年の訪米以来原子力利用に積極的にとりくみ、55年2月に国政に乗り出して以後はアメリカからJ.ホプキンス等による原子力平和使節団を招く一方、11月、第三次鳩山内閣で原子力担当国務大臣に就任、さらに56年1月には新設された原子力委員会の初代委員長に就任した。同時にメディアを駆使して国民への浸透をはかる。

56年元旦の『読売新聞』は座談会「原子力平和利用の夢」を大きく掲載している。出席者は中曽根康弘・嵯峨根遼吉(理学博士)・作家の森田たま、それに正力である。そこで正力が「日本人は広島とか長崎の原爆で恐怖の念がある。人によってはビクビクしている。研究は専門家がやってくれるからぼくは国民の啓発が大事だと思って、読売新聞をあげて啓発にかかった」と語っているように、『読売新聞』55年1月から5月中旬までの紙面には28回の関連記事がある。月平均5回である。5月11日と13日には「原子力平和利用講演会」の記事があるが、これは読売新聞主催で日本工業倶楽部と日比谷公会堂で開催され、両方とも傘下の日本テレビで中継している。メディア・ミックスである。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.さらに55年11月から12月にかけての6週間、東京・日比谷で原子力平和利用博覧会を開催した。9月1日の「社告」に、「この博覧会の内容はアイゼンハウァー大統領の平和利用計画の一つとして、人々に如何にわかりやすく原子力の効用を理解させるか、というのでアメリカの知能を集めて設計され」とあるように、実際はアメリカのプロパガンダの一環、費用はすべてアメリカ持ちだった。(井川充雄「原子力平和利用博覧会と新聞社」(『戦後日本のメディアイベント 1945−1960』世界思想社 2002年)。12月2日の『読売新聞』は、参観者の反応を「八割が最大の賛辞」の見出しのもとにつたえている。載せられた声には「原子力の平和利用が、これまでばくぜんと想像していた以上に人類の幸福に役立つものだということが、この展覧会を見てよくのみこめた」、「この原子力博を見ることによって原子力にたいする不安感が減り、日本でも原子力の平和利用を積極的に進めてもらいたいという気持ちが強くなった」とある。

博覧会はその後、二年近くをかけて名古屋・大阪・広島・福岡など全国10カ所を巡回し、合計260万人あまりの観客を動員した。広島では、56年5月27日から6月17日まで開かれ、10万9500人が参観したという。他の開催地では地元新聞社の主催だったが、広島では中国新聞社だけでなく、県・市・広島大学・アメリカ文化センターの共催となった。被爆都市であるだけに、反米感情の高まりや左翼の跳梁を恐れ、官・学・マスコミ総がかりの全県体制をとったのだ。

しかも会場は、前年被爆10周年を期して開館した原爆資料館である。展示中の原爆の悲惨さをつたえる資料をすべて撤去し、かわりに原子力船の模型やマジック・ハンドなど原子力平和利用の輝かしい成果を展示した。被爆者たちは当然これに反発した。被爆者連絡協議会事務局長森瀧市郎はアメリカ文化センターを訪ね、フツイ館長に抗議した。しかし館長はかえって開き直り、「私は『平和利用!』『平和利用!』『平和利用!』で広島を塗りつぶしてみせます」と豪語したという(森瀧市郎『核絶対否定への歩み』渓水社)。

編集部より:

本稿は、インパクション一八〇号 特集「震災を克服し原発に抗う」2011年6月25日刊(1500円+税) に掲載された「ヒロシマとフクシマのあいだ」を、WANのために再編集していただいたものです。

初出のインパクション一八〇号には他にもジェンダーの視点からの震災・原発関連論文が多数掲載されています。








カテゴリー:脱原発に向けた動き

タグ:脱原発 / 原発 / 加納実紀代 / 広島