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 『恋の罪』評 性の先にあるもの  清水馨[学生映画批評]

2011.11.13 Sun

    前作『冷たい熱帯魚』(11)という予防注射をしているにもかかわらず、この作品の女性たちの「愛の地獄」の濃厚さには、熱が出てしまった。男と女の「地獄」には、まだ、続きがあったのだと思った。

   「わたしのとこまで堕ちてこい」。渋谷のラブホテル街で起きた猟奇殺人を追っていくうちに、私たちはとんでもないセリフを耳にすることになる。原色のライトが、夜を妖しく照らす異空間の中、美しい女性たちは、目を覆いたくなるほどにすべてをさらけ出し、下品に堕落していく。

 同じ女性とはいえども、全く未知の世界が繰り広げられていくことに、必死に追いついていくしかなかった。ここまで彼女たちを貶める意味は何なのか。徹底的で容赦のない展開に、目を閉じる暇もなく2時間24分を疾走してしまった。

 神楽坂恵演じる、夫に従順な日々を持て余した主婦、いずみがどんどん脱がされていく。家から一歩踏み出すと、決められたレールを外れるように、ストーリーが動き出す。着ていたものから順に、服や、はじらい、純真さが消えてゆくと、堕ちるところまで堕ちていく。彼女を、奈落の底まで導いた女性は、東都大学で日本文学を教える助教授。エリートとして生きるも、昼と夜の二重生活を送りながら自身を保っている。この役に取り憑かれてしまったような、冨樫真は、物語の必要悪、毒のような存在だ。やがて、2人は境地へ追い込まれ、物語はエスカレートしていく。過激な「彼女たち」から、観客の心が離れそうになると、2人を追う女刑事の抑制された姿が作品を救い、衝撃のラストシーンまで、この世界に留まることができた。

 刑事演ずる水野美紀の背景には、いつも雨が降っている。冒頭のセックスシーンにおいても、大量のシャワーが彼女を覆っているし、まるで、この物語の暴走を止める、鎮静剤のような存在だ。彼女はその役割のみならず、自身の宙に浮いた生活、影の部分を見せることで、2人の女性の過激な生活と、私たちの生活やその裏に隠しているものを結びつけようとする媒介者でもある。そこから、この壮絶なエンターテインメントには、表面的に見せているものを超えて感じて欲しいメッセージがあることを静かに見せていく。

 「R-18」という表記の通り、始めから終わりまで「性」が纏わりついてくることは確かだ。けれども、それは、人間の奥底にしまわれている、出そうと思ってもそう簡単に出すことのできない、究極の真理状態を映像に「記録」した、ということでしかない。徹底的で、容赦ない展開で進んでいく意味がここで分かる。

 

 

 彼女たちは、自らの意志と力で人生を下っていくため、この作品における男たちは、女性を際立たせる単なる添え物でしかない。貞淑であったいずみの夫が書いた官能小説の題名は、皮肉にも「夜の動物園」という。「円山町」という動物園で、自分の妻が檻を抜け出し、襲いかかってくるとは思いもよらなかっただろうと思うと、見ていて心地よい。ああ、園監督は「女性の視点」で物語を書くことに成功したのだと思った。

今から10年以上前に、この街で実際に起きた殺人事件から繰り広げられていくこの物語は、全くのフィクションであり、恐怖のエンターテインメントとして成り立っている。が、夜の闇に隠された人々の裏の姿、醜さ、欲望、悲しさを手加減なく暴いていく映像は、一種のドキュメンタリーといえるかもしれない。

 (日本大学芸術学部・映画学科・3年・清水馨・しみずけい)

『恋の罪』公式HPは こちら www.koi-tumi.com/

(園子温監督/日本/2011/R-18)

11/12(土)より、テアトル新宿ほか全国ロードショー

(C)2011「恋の罪」製作委員会

カテゴリー:新作映画評・エッセイ

タグ:セクシュアリティ / LGBT / 映画 / 清水馨 / 売買春 / 女と映画 / 邦画