2013.08.20 Tue
1968年、パリ五月革命のさなか、女友だちはカルチェ・ラタン地区、パリ第3・4大学近くに下宿していた。デモ隊と警官隊の激しい衝突。石畳を剥がして警官に投げつける学生。追われた一人の学生が彼女の屋根裏部屋にダダダッと駆け上がってきた。見知らぬ彼を素知らぬ顔で匿い、無事に逃がしてあげたという。
大学卒業後、すぐ結婚・出産して千葉に住む私を訪ねて、彼女は、その時の、まるで映画のワンシーンのようなほんとの話を、淡々と語ってくれた。
後に別れた、新聞記者だった元夫は、成田闘争や大学紛争の取材に走り回り、ほとんど家に帰ってこない。ただ家事労働に明け暮れる私は、なんか取り残されたような、割り切れない思いで焦燥感を抱いていた。
その頃、ある人々にとっては、根拠もなく、革命は必ず起こると信じられていた時代だった。
吉田健一かぶれの彼女は、70年代はじめに「ロンドンへ留学してくるわ」と日本を旅立つ。やがてフランスの大学で学び、それから40年あまりパリ在住。アンヴァリッドの裏通りあたりに住んでいる。
音信不通だった彼女から30年後のある日、突然、電話があった。「あなた京都に帰っていたのね。帰国したら遊びにいくわ」。それからはお構いなしに夜遅く、パリから長い電話がかかってくる。
イギリスの教育はね、小さい子に徹底して教えるのよ。「あなたはそれをどう思うの?」「それはなぜ?」「そのわけを自分の言葉でいってごらん」。自分の考えをちゃんと言葉で伝えなければいけない。その力を子どもの頃から鍛えておけば、どこの国へ行って学ぼうとも不自由はないのだと。
交渉をめぐるイギリス人とフランス人の違い。「フランス人は、相手がいった言葉を絶対忘れないと自慢するけど、イギリス人は、自分が話したことは決して忘れないの。だからイギリス人はお天気の話しかしないという比喩も生まれたのかもね」とは彼女の説。
異国に暮らせば、国を失った人や民族を捨てなければならなかった人々とも出会う。彼ら彼女らはその地でたくましく生きていかざるをえない。彼女自身も、これまでフリーパスだったビザの10年更新が、サルコジ以降、手続きがちょっと面倒になったとか。トラブルにも遭遇する。襲われそうになって手近にあるものをパッとつかんで身構え、たじろぐ相手を撃退したことも何度かあったという。
どうやら物書きで暮らしているらしいが、それも定かではない。異国でひとり生きていくには知恵と勇気と覚悟がいるが、それにもましていろんな国の人々との友人関係に恵まれているのは、さすがだなと思う。
東京・吉祥寺に一人で住む90歳の彼女の母上が、ある事情があって京都のマンションに一人でやってきた。「何かあったらお願いね」とパリからの連絡。「うん、いいわよ」。自転車で走ればすぐだからと安請け合いしたものの、再三、パリから指令がくる。「あれを買ってきて」「こんなこと困っているらしいから行ってみて」。「はい、はい」と対応するが、大学時代とちっとも変わらぬ、そんな彼女の流儀に、妙に納得してみたりもする。
明け方、母上から「ちょっと息苦しいんです。どうしましょう」と電話があり、慌てて病院へつれていく。「どこも悪くありませんよ」と医者にいわれてホッとする。うちの母も90歳、熊本で一人暮らしをしているので他人ごととは思えない。できることはさせてもらおうと思う。やがてパリから彼女が帰国。母上とともに無事に東京へ帰っていき、やっとひと安心。
もう一人、娘の友人の中国人の40代女性。日本語も堪能、仕事もできる女性だが、日本で、がんを患い、現在、闘病中。夫とは離婚、10歳の息子と二人で日本に暮らしている。息子が高校に入るまではどうしても生きていたいと、つらい抗がん剤治療に耐えている。
先日、東京で娘と一緒にお食事をした。元気そうだったが、明日からまた治療が始まるという。息子にはすべて事情を話してある。彼女を支える息子や上海の母上と兄夫婦、そして仲のいい女友だちと。日本の友人にも恵まれていると聞いて、少し安心したものの、どうか平穏な生活を、と願う。
さらにもう一人、中国の奥地出身の才媛の20代女性。東京に進出した中国系IT企業で働いている。最近、彼女の生き方を受け止めるやさしい日本人男性と出会って結婚。きっと若い女性のロールモデルになると、これからが楽しみな異国での暮らしだ。
世界の果ての見知らぬ国々で、たとえばNGOで活躍する女性たちがたくさんいる。自分の生き方を求めて、ひとり母国を飛び出し、異国の暮らしを選びとった女たち。
彼女たちほどドラマチックでもなく、エキサイティングでもない、平凡な暮らしの私だけど、女ひとり異国で生きる彼女たちの人生に、はるか遠くから心をこめてエールを送りたいなと思う。
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