エッセイ

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この時代を、どう生き延びるか(旅は道草・57) やぎ みね

2014.10.20 Mon

 50代~80代の女たちで読書会を始めて3年になる。

 1冊目は上野千鶴子著『ケアの社会学』。方法論としての社会学を駆使し、ケアの理論と現場を分析した476ページ二段組みの大著。みんなで読むのに1年かかった。

 2冊目は80年代に遡り、同じく上野著『家父長制と資本制』。フェミニズムの理論を確立した一冊。25年前に、すでに今の時代を見通していた予見の書だ。

 そして3冊目も、上野著『生き延びるための思想』を読み進めている。

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 喫茶店の片隅で年配女性たちが「マルクスが」「家父長制が」「革命が」と語るのを聞いて、近くの席の客が怪訝そうな顔をして席を立つ。

 歳をとると、本は頭ではなく肌で感じて読む。生きてきた過去の思いや人との関係と重ね合わせて、読むほどに「そうそう。そうなんや」と頷きたくなる。

 レジュメをつくって報告する。今月は私の当番。『生き延びるための思想』第1章「女性兵士という問題」3節「対抗暴力とジェンダー」のところだ。

 70年代の、あの時代。切実な思いで読まずにはいられなかった。

 あの頃、身動きのとれない子育てに追われ、次々に起こる出来事に、何もできないまま、ただニュースを追いかけることしかできなかったから。

 女性は兵士になれるか? yes。もう世界は軍隊の「男女共同参画」時代に入っている。では「正しい暴力」はあるか? 女は革命兵士になれるか? 対抗暴力にはテロリズム、クーデター、レジスタンスという言葉がある。対抗暴力が失敗に終われば「テロ」となり、成功すれば「革命」となる。

 70年代はある意味、革命が起こると信じた人たちがいる時代だった。

 連合赤軍の永田洋子がいた。東アジア反日武装戦線の浴田由紀子、大道寺あや子、テルアビブ空港乱射事件の重信房子がいた。そしてリブの田中美津がいた。

 永田洋子は獄中で亡くなり、浴田由紀子はルーマニアから強制送還され、大道寺あや子は国際指名手配中。生き延びて帰国した重信房子は、20年の刑を受けて今、医療刑務所にいる。

 「永田洋子は、あたしだ」と田中美津は言った。二人の差は紙一重。同じ抑圧を共有しつつ「女性解放」の行き着く先に、革命兵士とリブを選んだ分岐点は何だったのか、と上野さんは問う。

 9・11の後、「テロにも戦争にも反対といえるか?」をめぐって、朝日新聞に「非力の思想、弱者による対抗暴力に反対」と書いた上野さんは、ある読者から「民族解放闘争も認めないのか」と反論される。ただし、9・11には女性テロリストはいなかったが。

 「いのちより大切な価値があるとするヒロイズムには反対。なぜならフェミニズムは生き延びるための思想だから」と、上野さんは再反論する。最後には非力な者はやられてしまう「暴力の非対称性」がある限り、「やられたらやり返せ」という対抗暴力の立ち向かう先が、たとえ侵略企業や天皇制、世界貿易センタービル爆破であったとしても、強者の側に立つ敵はビクともしない。

 しかもアルジェやチェチェンやパレスチナでの女性兵士による自爆テロは、二流の戦闘力でしかない女が、過剰な自己犠牲を強いられるというジェンダーの悲劇を生むしかない。自爆テロは一回限りの成功。その犠牲者は常に女や子ども、非力な人たちばかりだ。

 だからこそ非力な女、子ども、高齢者、障害のある人、それらの人々が「とも」にあることで、互いの弱さを知り、相互に想像力をもちあいながら、からくも生き延びていこうと上野さんは提案する。

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 そしてもう一人、他者への想像力をもつ女がいた。新左翼から訣別したリブの女。田中美津の「便所からの解放」と並んで、朝鮮人慰安婦に対する日本の女の加害と被害の二重性を自己批判したリブ宣言「被抑圧民族の痛みを自らの痛みとせよ」と書いた岡澤文江がいる。

 資料『日本ウーマン・リブ史』(松香堂)を編集しながら、「全学連第30回定期大会での性の差別=排外主義と戦う決意表明」のゲラを、私は熱い思いで読んだ。

 女と男の関係、親と子の関係、性愛と家族という日常を戦場としたリブとフェミニズム。「性差別はそのつど、その時、その場で反復、再生産される。だからこそ解放とは、いま・ここでのささやかな日常の解放のつみかさねのうちにしか展望することができない」。リブは40年前、そう宣言していたと上野さんは書く。

 戦争という国家暴力・公権力の暴力と、私領域の暴力(児童虐待・夫から妻へのDV、高齢者虐待)は、法が及ばぬ無法地帯として許されている意味では同じ。DV被害者は自らを被害者と自己認知することから回復が始まる。それは弱者が、より弱者へと攻撃を向けてしまう差別の構造=「抑圧委譲の原理」(丸山眞男)を変えていくことにもつながる、と著者は語る。

 「殺す者」はいつでも「殺される者」となる。「殺されない者」となるためには「殺す者」とならねばならないのか?

 「被害者にならないことをつうじて加害者にもならない。どんなときも、からくも逃げよ、生き延びよ」と著者は呼びかける。

 ますますキナ臭くなっていく、この時代を、はてさて、どうやって非力な弱者として生き延びていこうか。この難問に、答えはなかなか見つからない。

 「旅は道草」は毎月20日に掲載の予定です。これまでの記事は、こちらからお読みになれます。








カテゴリー:旅は道草

タグ:フェミニズム / 田中美津 / 上野千鶴子 / やぎみね / リブ