2015.04.20 Mon
1945年11月、GHQ女性部隊中尉エセル・ウィードのもとに加藤シヅエ、羽仁説子が呼ばれ、戦後日本の女性の民主化のための運動の必要性が話しあわれた。やがてこの二人に加えて宮本百合子、佐多稲子、山本杉、赤松常子、山室民子、松岡洋子の8人が呼びかけ人となり、戦後初の女性運動団体として婦人民主クラブが生まれた。初代委員長は松岡洋子。46年3月16日、神田・共立講堂で婦人民主クラブ創立大会が開かれ、全国から200名の入会申込みがあった。
宮本百合子は聴衆の一人ひとりに話しかけるように「私たちは、ただ一度しかない人生を、自分として納得できるしかたで充実させていかなければならないと思います」と語った。(婦人民主クラブ編『しなやかにおんなたち 婦人民主クラブ50年の歩み』より)
46年8月22日、『婦人民主新聞』創刊。あれから70年、現在、3085号となる。
その頃、私は満3歳。35年後に婦人民主クラブに入り、あこがれの佐多稲子さんと出会うことになるとは、まだ知るよしもない。
46年1月1日、天皇の人間宣言。同年4月10日、戦後初の総選挙で婦人参政権を初めて行使。女性39人が当選。同年6月26日、吉田茂首相は「憲法第9条は自衛権の発動としての戦争も交戦権も放棄したもの」と言明。同年11月3日、日本国憲法公布(47年5月3日施行)。47年3月9日、戦後初の国際婦人デー。同年12月22日、民法改正・戸籍法公布。結婚及び離婚の自由・家族制度の廃止等が盛り込まれた。「エッ、戦前は女に離婚の自由もなかったの?」と、びっくり。48年7月13日、優生保護法公布。人工妊娠中絶などの条件を緩和。
1950年6月25日、朝鮮戦争勃発。小学1年の私たちに先生は地図を示して、「ここでまた戦争が始まりました」と話してくれた。50年代、女の運動は平和・軍事基地反対・原水爆禁止運動に積極的に参加していく。戦後10年、平和への願いが高まるなか、アメリカは「琉球諸島の無期限占領」を言明。軍事基地反対―内灘・砂川のたたかいが繰り広げられる。とりわけ石川県・内灘試射場反対闘争は、「もうがまんできんわいね」という女たちの声から始まった。後に五木寛之の『内灘夫人』を読み、89年、内灘へ離婚旅行に赴き、日本海の荒波を見つめて離婚を決めた地でもある。
54年3月1日、北太平洋ビキニ環礁で米・水爆実験。焼津のマグロ漁船第五福竜丸被災。55年2月、石垣綾子が「主婦という第二職業論」を発表。主婦論争のきっかけとなる。56年5月24日、売春防止法公布。果たしてその後の彼女たちにとって真に解放となる法となりえたのかどうか?
1960年6月19日、新安保条約強行裁決。高校2年。フランスデモで御堂筋いっぱいに広がり、男子学生と手をつないで歩く。後日、一人の教師と男子生徒1名が処分されたことを知る。そして 「もう戦後ではない」と高度経済成長が始まった。初デートは高校3年。「風と共に去りぬ」のロードショーを見に行く。
62年3月、「女子学生亡国論」のさなか大学進学。卒業時、民間企業は「女子学生不可」で入社試験も受けられず、女子の選択は教職か公務員、マスコミしかなかった時代。その教師採用内定をあっさりと捨て、好きな男との結婚を選んだ、だめな女のツケが20年後にやってくる。
66年7月25日、東海原発1号炉営業運転開始。原子力の平和利用の政策のもと、原子力工学科の同級生たちは次々と原子力発電の仕事についていった。
66年9月18日、ボーヴォワールとサルトルが来日。『婦人民主新聞』の近藤悠子記者がボーヴォワールに独占インタビュー。「『自由な女』の条件は?」との問いに「働く女性」ときっぱり。「母親が朝から晩まで子どもにかかりきっていなければならないという考え方は、男と、働かない女たちがつくりだした論理。保育所をつくって子ども同士の社会が生まれるのは子どもにとっても幸福なこと」と答える。当時、「ポストの数ほど保育所を」という女たちの運動が広がっていた。67年11月7日、第22回国連総会で「婦人に対する差別撤廃宣言」採択。
1970年代はリブの始まり。68年5月、パリ五月革命を期に学生運動の波は世界に広がり、その渦中から女たちが「おんなであること」に目覚めていく。70年10月21日、「おんなの解放、集会とデモ」(初めてのリブ街頭デモ)。同年11月14日、日本で初のリブ大会「解放のための討論会-性差別への告発」。田中美津は『便所からの解放』で「どのような状況のもとでも、女として以外生きることができないものにとって“女であること”を問い詰めることを通じてしか“女”を“人間”に普遍化することはできない」と、「女の解放」は「性の解放」であることをはっきりと位置づけた。71年8月21~24日、ウーマン・リブ大合宿(長野県信濃平)に全国から女たちが集まった。
73年5月、優生保護法「改正」反対でリブ団体、厚生省座り込み。同年12月25日、「キーセン観光に反対する女たちの会」が羽田空港で抗議行動。74年5月、優生保護法改正案、衆院で可決、参院で廃案。「産む・産まないは女の権利」「産める社会を-産みたい社会を!」「おんなのからだはおんなのもの」をスローガンに「性の国家管理を許さない」と女たちが立ち上がった成果だった。
75年6月19~7月2日、メキシコ国際婦人年世界会議で「世界行動計画」等を採択。
76年6月15日、民法、戸籍法改正。離婚後の姓、自由選択に。それまで女は家族の姓に縛られていたとは。後に離婚した私も民法767条2により自ら筆頭者とする新戸籍をつくり、結婚時の姓を継続使用することにした。それも「新戸籍編制につき除籍」と記載されて。
76年11月6日、天皇在位50年記念祝典に反対する「<天皇制・女>集会」(婦民主催)の講演「あなたの中に天皇はいないか」(朴寿南)に私の内なる差別の意識構造を鋭く問われたことを思い出す。
77年7月23日、文部省、学習指導要領を改正。「君が代」を国歌に規定。79年3月28日、米スリーマイル島で原発事故。同年6月21日、国際人権規約批准。
1980年12月7日、「戦争への道を許さない女たち」の連絡会結成。82年8月29日、‘82優生保護法改悪阻止連絡会結成。70年代の家庭基盤充実構想、母子保健法改悪を背景に、「経済的理由」を削除した「優生保護法改正案」再上程に反対する運動が全国に広がり、ついに83年3月24日、自民党は国会に優生保護法改正案提出を見送った。だが医学技術・科学の進歩のもと、果たして「女は子産みの道具ではない」と断言できるだろうか。いつの世も「おんなのからだはおんなのもの」と言い続けていかなければと思う。
83年3月18日、高齢社会をよくする女性の会発足。89年11月、京都の会もスタート。この運動によって介護保険法が成立するなど、女性の力が政策を動かしていくことになる
85年5月17日、「男女雇用機会均等法」成立(86年4月1日施行)。女性差別撤廃条約批准に向け、国内法の整備①国籍法の父母主義の採用②男女平等教育の推進・高校家庭科男女共修③雇用における男女平等の確保が急務となる。とりわけ③をめぐって女性の労働権と政府・使用者側との攻防が各地で展開された。あの熱気とうねりはどこへ終息したのだろうか。今なお働く女の現場は「実効ある平等法」とは、ほど遠いといわざるをえない。そして同年6月25日、女性差別撤廃条約を批准(7月25日発効)。さらに85年6月11日、労働者派遣法成立。以降、労働の規制緩和は着々と進行していく。同年7月15~26日、国連女性の10年ナイロビ会議。同年9月5日、文部省、日の丸・君が代の徹底で学校現場への締めつけが強まる。
86年3月8日~95年まで10年間、京都で「女のフェスティバル」が開催された。全国から50団体、1000人が集う女のネットワークを広げていく。その企画グループに私も加わっていた。
86年4月26日、ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で爆発事故。
89年1月7日、昭和天皇死去。同年2月24日、大喪の礼を国家儀式として挙行。同年6月4日、中国・天安門事件。同年11月10日、ベルリンの壁崩壊(翌年10月3日、統一ドイツ誕生)。同年12月2日、米ソ首脳マルタ会談で東西冷戦終結宣言。後に旅したマルタ・マルサシュロックは三方を入り江に囲まれた港町。船上で密議を交わすにふさわしい地の利に、なるほどと納得したものだ。
1991年8月、韓国の「従軍慰安婦」とされた金学順さんが「日本政府がウソをついても、私という生き証人がいる」と名乗り出た。92年1月14日、「従軍慰安婦問題行動ネットワーク」を立ち上げ、同じく名乗り出た宋神道さんを迎えて京都でも講演会を開く。93年8月4日、政府は従軍慰安婦問題について謝罪。すでにこの時、結論は出ている。なのに国は何を覆そうとしているのか。
93年6月、パートタイム労働法成立。95年8月30~9月8日、北京女性会議NGOフォーラム。同年6月、育児・介護休業法成立。97年12月、介護保険法成立(2000年4月施行)。99年5月、「児童買春、児童ポルノにかかる行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」成立。同年6月、「男女共同参画社会基本法」成立。以降、官主導の「男女共同参画」が進んでいく。
2000年5月「ストーカー規制法」「児童虐待防止法」成立。01年4月「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」成立。いわゆるDV防止法だ。06年6月、男女雇用機会均等法及び労働基準法の改正。2011年3月11日、東日本大震災による福島原発事故発生。
21世紀に入り、次々と法改正が繰り返されていく。規制緩和による所得格差の拡大や経済のグローバル化、少子高齢化問題等々、さまざまに複雑化していく時代を迎え、女も男も、若者も子どもも、高齢者も、ますます生きにくい社会になってきている。
70年前、何もなくても希望をもつ女たちの運動が始まった。そのなかから獲得してきた女の権利とは? しかし既得権は常に自らたたかいとっていかなければ、すぐに奪われていく。女の運動は決して立ち止まってはいけない。そして次世代へ受け継がれていかなければならない。
そのために2009年5月、女たちは「ウィメンズアクションネットワーク」(WAN)を立ち上げた。ポータルサイトで日本や世界の女たちが、のびやかにつながっていく。新たな女の運動がサイトを通して時々刻々、広がっていくのを実感する日々。ほんとにうれしい。そしてそのなかに、私もいる。
「旅は道草」は毎月20日に掲載予定です。これまでの記事はこちらからどうぞ。
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