雄正丸(手前。奥に見える対岸は上関原発予定地)
新月から3日、潮の干満差がまだ大きい頃だった。祝島の船大工さんがつくった端正な船・雄正丸は、ロープにたっぷり余裕をとって岸につながれていた。瀬戸内海の潮の干満差は3〜4メートル程あるからだ。太平洋側は約1メートル、日本海側なら数十センチメートルなので、かなり違う。瀬戸内海に不慣れで、干潮時に宙づり状態になる船もアルとかナイとか。
シケならともかく、雄正丸が昼前から港で見られるのは珍しい。船長の岡本正昭さんは祝島の一本釣り漁師。魚の食いつきがよければ日に2回沖へでることもある働き者だ。
一気に「配分」?
だがこの日、2013年6月12日、岡本さんは祝島公民館の一室にいた。上関原発のための漁業補償金について、山口県漁協祝島支店の運営委員会があったのだ。県漁協本店の理事ら数人と祝島支店の運営委員会の4人が、何を話したか? 関係者への取材から次の様子が伺えた。
* * * * *
「祝島支店の漁業補償金配分基準を議決するための『総会の部会』開催が、県漁協本店の理事会で決まった。今日はその配分基準を説明し、理解を得たい」。運営委員長がそう趣旨を述べ、説明を始めた。だが、副運営委員長の岡本さんは次のように応じた。
祝島支店は、漁業補償金の受けとりを拒む決議を重ねてきた。その拒否決議は無視して採決を繰り返し迫っておきながら、2月28日に(受けとり)賛成決議の格好が一回整っただけで一気に配分案を出してくるとは、納得せん。まして祝島支店の正組合員31人は、3月22日に改めて「受けとり拒否」の意思を書面で本店へ届けている。わしらは最後まで、この金は欲しゅうない。この話は公開でやったらどうか。組合員には妻と協力せてやっとる者も多い。男だけじゃなく妻も、女の人も報道陣も入れてやればいい―。
「漁師だけの問題」か
委員会は揉めた。「これは組合員の問題だ」という声も出た。確かに組合員の問題ではある。同時に、原発問題を30年来かかえる島の暮らしに関わる問題でもあった。組合員でひっそり決めても揉めるだろう。祝島支店の正組合員53人(2013年当時)は島人の約8人に1人、うち女の人は1人きりなのだ。過去にも、重要な会合を公開で開催したことがある。「私ら詰めかけて傍聴せたんよ」と女の人たちが話していた。だがこの日、「公開でやると“脅し”になる」と拒む声が出た。
その姿勢は採決方法にも及ぶ。「挙手では、恐れる者は手をあげない。無記名投票で」だそうだ。慣習的に挙手で採決してきた祝島で、なぜか漁業補償金についての採決(こちらの表参照)では、挙手を避けようとする声が聞かれるようになっていた。主な理由は「大事なことは無記名投票で」と「挙手じゃ意見を出せん」。
だが「上関原発を建てさせない祝島島民の会」(「島民の会」)代表の清水敏保(としやす)さんは次のように指摘する。
「祝島では大事なことを挙手で決めてきた。隣の旧四代(しだい)漁協や県漁協も、それぞれ1996年に上関原発のため漁業権の一部消滅を議決したときや、2014年に定款の一部改正について議決したとき、挙手で決めたことが裁判や議事録から分かっている。どちらも、3分の2以上の多数による議決が必要な『特別議決事項』に定款が定める、非常に大事なことを挙手で決めている」

旧四代漁協の臨時総会概要
一般的には、透明性が増せば信頼性も高まり、望ましい。それには公開が有効だ。だが原発問題がある祝島では、一筋縄ではいかない。恐れる者が意見を出せないというが、何を恐れるのだろう。次の言葉が手掛かりか。
「祝島は、ほとんどの島民が、生存権をかけ原発計画に反対している。だから漁協の組合員も、挙手で漁業補償金の受けとりに賛成する人が少なかった」。祝島の自治会長であり祝島支店の組合員でもある木村力さんが、そう話していた。裏返しの事実として浮かびあがるのは、周囲約12キロメートルの島で、互いに支えあって生きてきた祝島の暮らしに他ならない。
絶対に負けられない
さて2013年6月12日の運営委員会は、紛糾の末どうなったか。
組合員みんなの意見を聞こうと、運営委員長が「総会の部会」開催を断言した。目的は「協議」で「議決」ではないという話だった。岡本さんが退出しかけると、「待て、それは返せ」と大きな声がして、運営委員長らが飛んできた。県漁協本店と祝島支店の運営委員長が一方的につくってきた、漁業補償金の配分基準を記載した紙を、岡本さんの手から取り上げた。「漁業補償金はいらんなら、拒否すればいい。『総会の部会』を開いて決を採る。結果に関わらず、自分が運営委員長の間は、もうこれについて採決したくない。今回で最後だ」。運営委員長はそう言った。
* * * * *
翌13日、「総会の部会」開催案内が組合員へ届いた。日時は6月21日午後5時、場所は祝島公民館、議案は漁業補償金配分基準(案)についてとある。急遽14日に「島民の会」が集まった。約9割の島民が会員なので、知らせはすぐ伝わる。「島民の会」の漁師と妻も集まり、漁業補償金の配分基準を団結して否決すると確認。「絶対に負けられない。こんど負けたら当分は…」と漁師が言いかけると、「しばらくバラバラになる」と女の人の声が続いたという。「もう一回、この31人で頑張ったら、勝てるんじゃないか。頑張らんにゃあ」。女漁師の言葉で気合いが満ちた。
「漁師だけの問題じゃない」
奔走が始まった。「漁業補償金は絶対に受けとらん。海はわしらのもんじゃないんじゃけぇ」と語る漁師は、日頃から人助けで走り歩くが、しばらくは腰の落ちつく間もない様子だ。「祝島の海でなし、誰の海でなし。みんなの海じゃから、守らんといかんのよ」と、以前も話していたのは岡本さんだ。漁師は海を仕事場にするが、それに留まらない存在が海だった。
けれど現在の日本では、漁業補償金についての会合で議決権をもつのは祝島支店の正組合員のみ。准組合員に発言権はあるが議決権はなく、組合員でない人には、どちらもない。島のあちこちで、女の人のささやきが聞こえた。
「みんなで31年も頑張ってきたんよ」「いまさら原発のカネを受けとって、どうなろう。わしらの青春を返せ、いうの」「漁業補償金は漁師の問題かしれんけど、それを受けとった結果は、漁師だけの問題じゃないよねえ」。その思いは女の人に限らない。祝島に暮らすのも海を仕事場にするのも、漁師ばかりでなかった。たとえば漁を生業(なりわい)にする百姓も珍しくなかったという。
「わしらが子どもの頃、百姓の収入源は、夏はイワシ網、冬は酒造りが普通だった」と、山本藤樹(とうじゅ)さん文子(ふみこ)さん夫妻は話す。中世史家の網野善彦さんによれば、本来、百姓は農民と同義ではなく、農業以外の生業に主として携わる人びとを含むという。本来の意味での百姓が多かったということだろう。二人は次のように語った。
「うちは百姓じゃが、西第一会社いう株式会社でイワシ網をもっちょった。通称『西会(にいがい)』いうた。21〜22軒くらいで株をもち、ほとんど百姓じゃった。イワシ網をやっちょる家は、女の人も子どもも手伝う。子どもでも、手伝ったらイワシを分けてもらうんじゃ。わしは小学5年から手伝った」
ヤマシバ〜山海浜の協同
「イワシ網は船6隻、漕ぎ手30人くらいで1組。それが6組あった。船は、網を積んだ親船2隻、曳き船1隻、手船(てぶね)いう小さい船が3隻おる。手船は、箱メガネで海中を見てイワシを探す。わしはそれを漕いじょった。
山の上から海を見て探す人もおった。ヤマシバという、竹枠に白い帆を張った横広がりの大ウチワを両手に1つずつ持ち、山から船へ合図するんよ。『網を入れい』『船を開(ひら)け』『こっち寄れ』て。各船にはシバがあった。ヤマシバより小さく、ウチワよりちょっと大きい。シバを振るのが船頭(せんどう)で、ヤマシバを見て船団の音頭をとる。船はみな、シバの合図で動いて獲物をとっちょった」
60数年前まで祝島の一大産業だったというイワシ網漁は、男の人も女の人も子どもも、漁師も百姓も関わる、山と海と浜の協同作業だった。その経験から培われた何かがありそうだ。それを受け継いできたから、県漁協の強引なやり方で手続き的に追いつめられても心折れず、「漁師だけの問題じゃない」と懸命になる人が多いのか。
神舞の櫂伝馬船の船首で舞うサイヘイ(画面右手)
神舞と海賊とイワシ網
調べてみると、祝島から西の海域・伊予灘(いよなだ)や、南の海域・豊後水道(ぶんごすいどう)の宇和海でも、山で見張って沖へ合図を送るイワシ網漁があった。合図のために振ったのはシバではなくザイ。伊予灘のザイは「ウチワ状の道具」というから、呼び名は違えど形はシバ似だろう(データベース「えひめの記憶」より)。宇和海のザイは現物があるようで、写真 を見ると形もシバと異なるが、似ているものが祝島にあった。1100年以上つづく神舞(かんまい)神事で、櫂伝馬船(かいでんません)のサイヘイが振る道具だ。
思えば神舞の櫂伝馬船は、イワシ網の手船とほぼ同じ大きさだったそうだ。漕ぎ手が多かった頃、手船を改造して櫂伝馬船を増やしたこともあったと聞く。祝島のイワシ網は、千年を超える伝統という下地があるのかもしれない。
その漁法は古式捕鯨(ほげい)も彷彿させる。古式捕鯨の手法は海賊の伝統を引くと、先の網野善彦さんは指摘する。海賊とは、旧くは天皇家や大寺社に直属、のちに武士と結びつき、海上の警固・物流・武力で実力をもった人びと。海の領主とも水軍とも呼ばれ、瀬戸内海の戦には欠かせない存在だったようだ。戦国時代が終わり太平の世になると、海賊から鯨組(くじらぐみ)という集団が生まれ、組織的に鯨を捕るようになったという。紀伊半島の熊野で始まり、各地へ広がった。祝島にも、海賊衆として培った操船術や組織力を鯨漁に転用し、潮目を生き抜いた人びとがいた。年の半分は鯨組に出て不在となる人が祝島に少なくなかったと、江戸時代の文書『防長風土注進案』にある。
びわ仕事の風景。手前は袋を掛けたまま収穫したびわ。奥はマイラセと呼ぶ籠。かつてイワシ網で水揚げしたイワシはこれにいれて大釜でサッと茹で、天日で干してイリコ(煮干し)に加工したという。
突然の延期
2013年6月15日、その熊野から祝島を訪れた一行がいた。2000年に白紙となった芦浜(あしはま)原発計画に、37年抵抗した人びとだ。体験を聞かせてもらおうと、祝島の漁師の妻が集った。電力会社が芦浜で何をしたか、地元の漁師はどうしたか。慣れない口調で、芦浜の漁師の妻は語りはじめた。「当時、計画を推進する人を増やす方法として、電力会社は漁協の総会の委任状を1枚10万円で買ってました…」。
祝島では奔走が続いていた。静かな熱も帯びていく。芦浜と同じことが祝島であるとは限らないが、ないとも限らない。それでも、カネにカネで対抗する選択肢はない。それぞれが身近な正組合員に、理解と協力を誠心誠意お願いするという。次は絶対に負けられないから、病気や事故で突然出席できなくなった場合も議決権を行使できるよう、備えようとの声も聞こえた。
山では、びわの収穫がピークを迎えていた。その年は豊作で、多くの人がびわ仕事に精を出した。実を収穫して集落へ持ち帰り、選別してパックに詰める。「大きいのは下に詰めンさい。詰め方に根性がでるんよ。小さいのを下に詰め、大きいのを上に詰めるのは、よぅないよ」。パックを専用の箱に入れると出荷だ。痛みよいびわを相手に、待ったなしの手作業が続く。繁忙期に原発の問題が重なり、容易ではない。けれど挫けるどころか、発奮する姿が多かった。
すると6月20日夕刻、明日の「総会の部会」は延期するとの知らせが組合員へ届いた。台風接近中だからという。「この天気図なら台風はそれるがのぅ」と言いながら、複雑な表情で予報を眺める漁師がいた。万全を期そうと力を尽くし、成(な)ったところだったのだろうか。東電の福島第一原発事故から約2年。祝島では、原発のための漁業補償金をめぐる問題が、長引きそうな雲行きだった。(次回へ続く)
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