7月の満月の翌日。夏の日差しがそそぐ昼下がりの道を、自転車やバイクや軽トラックが風を切って駆けていく。大潮(おおしお)に合わせ、うに漁が口開(くちあ)け(解禁)となっていた。待ちかねた人たちが干潮(かんちょう)の時刻をみはからい、磯へ向かう。鉛のベルトをダイバースーツの上から腰に巻いて海へ潜る人。海に半身つかりながら水中眼鏡で海底を見る背中もある。
波打ち際を長靴で歩く人もいた。大潮の干潮は、そうでなければ海に沈んでいる石が露出する。沖を背にして陸(おか)へ向かい、波打ち際の大きな石を沖側に返して探すといいらしい。うにの子には「大きくなって帰っておいで」と声をかけるだけ。1〜2時間して潮が満ちはじめると「明日も来ようや」と言いつつ帰る。日和(ひより)がよければ毎日でも通いたいのだろう。
うに漁に横槍
だが2013年7月は、短い繁忙期に事件が重なった。7月21日に参議院議員選挙が終わると、翌22日には山口県漁協本店(県漁協)が動きはじめたのだ。上関原発のための漁業補償金の配分案について、延期されている県漁協祝島支店(支店)の「総会の部会」を開催したいという。この件に関しては、支店の正組合員53人中31人が准組合員8人とともに、事前の説明を求める質問状を、弁護士を介して県漁協へ送っている。ところが県漁協は事実上の無回答。これでは「開催は認められない」と、支店の副運営委員長を務める岡本正昭さんは県漁協へ申し入れた。
にもかかわらず25日、県漁協から支店の組合員へ、「総会の部会」を8月2日午後5時に開催すると知らせが届いた。<警告>と題した文書まで同封する物々しさだ。「祝島、いま少々たいへんじゃ」。自宅の炊事場で鍋を火にかけながら、漁師の妻の橋本典子さんがぼやく。祝島で「少々」は「かなり」の意味である場合が多い。かなり大変な状況なのだった。
「上関原発を建てさせない祝島島民の会」(「島民の会」)代表の清水敏保さんは、弁護士にすぐ相談。「この文書は、ありもしない事実を書き立て根拠なく脅す悪質な恫喝。『島民の会』のやり方に法的な問題はない」と確認した。だが影響される人はいた。7月26日に「島民の会」で集まると、「刑事事件になる」などの声も一部から出たという。「島民の会」が説明しても届かない人もいた。
もちろん脅しに動じない人もいる。女の人に多い。「田ノ浦で中国電力(中電)にしょっちゅう『警告』言われとったし、何ともない」「協力をお願いしただけで、強要だ妨害だ言うのはオカシイ。私ら何度でもお願いに行くよ」。そう意気込む声も聞かれた。祝島の女の人たちは、中電が原発のための埋め立て工事に着手したあと、対岸にある予定地・田ノ浦へ毎日交代で通った経験がある。現場で相手のやり方を見破っているかのようだ。
外部からの揺さぶりは続いた。漁業補償金は「受けとっても原発はもうできん」「漁業者の権利じゃけぇ」など、カネを受けとりやすくする言葉が囁かれる。「親戚の娘が、親が死ぬる前は祝島に戻りもせだったのに、今になってチョイチョイ戻っては『漁業補償金をもらえ』と言いにくる」などの話も聞いた。複雑さを増す状況に「まとまらんにゃあ」と、80代になった女の人が話す。ただ一拍おくと「原発のことで、こんなんになったんよ。原発の話が来て、敵(かたき)をつくったよ」とも呟いた。
70代を中心に女の人が骨を折っていた。漁師の妻もそうでない人も連れだって、議決権のある漁師にお願いに回る。「これからも仲ようせようね」と心からの言葉を添えて頼んだと聞く。漁師を励ます声や、自分を鼓舞する声も聞こえた。「わしらも31年頑張ったんで。頼むで。あんたら、せんなかろう(辛かろう)が頑張ってや」「漁協の総会(の部会)は出られんでも、前みたいに会場の外の階段に座ったり、漁師でない者も集まりゃエエねぇ」…。
激突
2013年8月2日、午後4時45分。祝島と本州をむすぶ定期船の最終便が祝島港に着いた。県漁協の理事が乗っている。誰かがサイレンを鳴らし、急を告げた。清水さんが改めて事前の説明を求める。だが仁保宜誠(むべなり)専務理事は「組合員には『総会の部会』で丁寧に説明する」の一点張り。「“丁寧”いうのが、もう信用できん。前回(2月)も、そう言ったのに説明してない」。清水さんはそう語気を強めた。
島のあちこちから人が詰めかけ、波止(はと)周辺はごった返している。「前回のやり方はなんだったんか」「なして公開でやれんの?」「原発のことは組合員だけの問題じゃない」「漁師でなしに祝島の一般の者にも説明して。今日は一般の者が怒っとるんよ」。次々に声があがる。ほどなくして仁保理事は、乗ってきた船へ引き返した。「ケガ人が出たら困るから帰る」という。ふたたびの延期だった。
「カネはいらん。海と山がありゃあ、なんぼでも生活していける。なんなら、ここへ来て住んでみろ。みんなここが好きで、孫もひ孫も戻って来よるんじゃ。あんたらには、こういうところがないんじゃろう。じゃけえ、カネカネカネカネ言うんじゃろう」
祖父がイワシ網の「ニイガイ」(詳しくは
前回参照)の沖まわし(船頭)だった綿村(わたむら)由美さんは、船内の理事に大声でそう訴えていた。
アオリイカどころか
次に県漁協が動いたのはアオリイカ漁が解禁になったころ。「イカ掛けに行こうや」と波止や沖にいそいそ向かうのは漁師に限らない。その最中の10月9日、知らせが届いた。県漁協が10月17日午後5時、支店の「総会の部会」を開くという。
危機再来に人が寄りあった。原発のカネを拒む支店の組合員39人(正31人+准8人)は11日、再質問書と新規の質問書を、弁護士を介して県漁協へ送付。15日正午までの回答を求めた。13日には、祝島の若手である50〜60代の女の人も集まった。祝島の運動を担ってきた70〜80代への敬意から、僭越な行動を控えてきた世代が、率先して動きだしたのだ。切羽つまった話しあいが朗らかにつづく。「共通のシンボルやキャッチフレーズを」という人がいれば「鉢巻じゃ」と声がでる。白い手拭に黒と赤で「原発絶対反対」と染めぬいた「島民の会」の鉢巻は、31年前からつづくデモの必需品。これに名前や想いを書いてもらって掲げれば、島内外の行動に出られない人の意思表示もできる、との案も出た。キャッチフレーズは「みんなの海じゃ」。「島民の会」が協力を呼びかける。「年寄りを回って説明せて、鉢巻に書いてもろうちょいた」と由美さんたちも奔走した。
15日、「島民の会」有志が県漁協へ向かう。だが組合員さえ入館を拒まれ、「正午直前に県漁協からFAXで文書はきたが、質問と噛み合わず実質的な無回答」と清水さんは憤る。両者の激突は避けられそうもなかった。
意思表示がめぐりめぐって
ところが16日午前。駆けこんできた橋本久男さんが、興奮気味にこう言った。「明日の会場が空いとるんじゃ」。17日の「総会の部会」の会場のことだ。漁師の久男さんは「島民の会」の運営委員でもある。人が集まって作業する広い部屋が必要になり、公民館に借りに行ったところ、気づいたという。「県漁協は予約しとらん。わしらで借りたらええんじゃない?」
すぐに相談して手を打つと、午後6時になって支店の組合員へ「総会の部会」延期の知らせが届いた。通算3度目である。
翌17日午後5時。県漁協が「総会の部会」を開催しようとした場所に集まっていたのは、祝島の女の人だった。色とりどりの布を床一面に広げている。各地から届いたそうだ。「島民の会」は「島外の人も布で意思表示を」と呼びかけていた。その日は晩までその部屋で、布を縫いあわせ旗にする作業が続いた。「針仕事は大嫌い」と言いつつも針を止めないのは典子さん。由美さんは手足を駆使して布を捌(さば)き、鼻歌まじりで縫う。「カルチャークラブも、ここで集まればエエね」「絵とかヨガとか書道とかエエね」と話が弾んでいた。
1年ぶりのひじき漁が
またひじきの季節になった。漁業補償金をめぐる騒動の発端から1年になる。口開けは2月17日。14年は上関町議会議員選挙があったので、ひと潮(しお)遅れだ。上関原発の計画が浮上した頃から「島民の会」は議員を送りだしており、選挙は一大関心事。竹林民子さん率いるチームも、16日の投開票を確認すると、日付がかわるのを待ち磯へ出た。夜中の磯は暗くて冷える。だが、ひじきを刈ったり運んだりすれば汗をかく。ヘッドライトで波打ち際を照らせば、うにが海面ちかくの岩をウロウロする姿が見え、暗いのも一興だ。
「県漁協がまた、いごき(動き)だすで」。その年の初刈り新ひじきを鉄釜でじっくり炊き、一晩蒸らして釜揚げひじきができた頃、4ヶ月ぶりの異変が察知された。案の定、2月23日の山口県知事選挙の翌日、県漁協から支店の組合員へ知らせが届いた。3月4日に「総会の部会」を開くという。
この県知事選は、上関原発のための海の埋め立て免許は「延長を認められない」と公約しながら、その後失効を先送りした山本繁太郎知事の辞職(14年3月逝去)によるものだった。原発ゼロ政策を「ゼロベースで見直す」安倍晋三首相は地元の県知事選の引き締めを図ったと伝えられ、自民党と公明党の推薦で、元総務省官僚の村岡嗣政(つぐまさ)知事が誕生した。
2月27日、支店の組合員37人(正27人+准10人)が、「総会の部会」開催は認めない、漁業補償金は受けとらないと県漁協へ文書を送付。選挙につづいてひじきの繁忙期に突入するなか、衝突の気配に、また奔走が始まった。
幽霊みたいなカネ
2014年3月4日。「島民の会」は午前9時から「上関原発を建てさせない祝島集会」を開いた。「上関原発は要らない」という県民の声を結集しようと、4日後には初の「上関原発を建てさせない山口県民大集会」が開かれる。この際、予定地対岸の祝島でも集会を開き、「幽霊みたいなカネで人間関係を破壊」(支店の組合員で祝島の自治会長の木村力さん)される難局を乗りきるという。
島内外から人が集まった。現状の報告に続き、「海を売ることはできない」「漁師だけではなく、みんなの問題」と「島民の会」のメッセージが発表される.
(全文はこちら)婦人会の協力で昼食の炊き出しも。握飯にアオサ汁、釜揚げひじきの煮物に酢の物、びわ茶と祝島づくしだ。この同じ部屋で、午後5時から「総会の部会」が開かれるという。
総出
午後3時。島の若手が船着場に集まりはじめる。45分には県警が警戒をはじめた。漁業補償金を受けとりたい漁師も集まってきた。船着場が混みはじめる。4時45分、県漁協の理事が乗る最終の定期船が到着。清水さんと岡本さんは、船に乗りこんで理事に事前の説明を求めるが一蹴され、支店の運営委員長などに突かれ押されて船外へ出た。
折しも大潮から2日、潮の干満差が大きい時期の、干潮の時刻。海水面がとても低い。波止の階段は全段が海面から出ている。船の入口から波止までの段差は2メートルを超えるだろう。そこに島人がほとんど総出で詰めかけている。「祝島島民の生活を壊すな」と書いた横断幕を持った由美さんと典子さんは、階段にいるのだろうが声は聞こえど姿が見えない。今度こそ誰か海へ落ちるのでは…と案じたほどの緊迫でも誰も落ちないから見事だ。最上段に民子さんが番人さながらに座っていた。その背後の波止上も人がもみくちゃ、その後ろもズラズラと、男の人も女の人も、漁師も漁師でない人もいた。
階段も波止も通れないわけではない。人はチョイチョイ動いている。だが理事一行は階段を昇りきらずに定期船へ引き返した。波止が拍手で沸く。午後5時すぎ、汽笛を響かせ、理事を乗せた定期船が離岸。4度目の延期が成り、あちこちで吐息が洩れた。
翌日。「昨日はよかったのぅ」「おもしろかったのぅ」が挨拶がわりとなった。引退した元漁師も「遠くの病院へ行くより、いいリハビリじゃった」と笑う。月と太陽と地球がもたらす潮の満ち干(ひ)が、堀となり砦となった祝島。晴天の下、宇宙(そら)につながる空気が島に戻っていた。(次回へ続く)