検索しても見つからない、読みたいのに探せない。
そんな本を誰かに手渡せる瞬間のために、司書は今日もはたらく。


パソコンの画面を凝視するあまり目は血走り、
書架を渡り歩いて汗をにじませ、喉はカラカラ。

それでも何事もなかったかのようなさわやかな笑顔であらわれ、軽やかに本を届ける。
ときには偶然を装って、あらわれてみたりもする。

司書は、まったく片思いである。

筆/北村 咲

★ 息子と絵本を読むときも、どこかで「ネタ探し」をしている司書根性がうらめしい。

たとえば『だるまちゃんとかみなりちゃん』の終盤。

テーブルにはありあまるごちそう。
かみなりどん一家―祖母、父、母、兄弟たち―とだるまちゃんが楽しげに会食している場面。

このページにくると、彼が必ず発する一言がある。

「おかあさん、すわってないね」

よく見ると、母親だけが立って、スープをよそっている。

「なんでかな?」その無邪気な問いに、うまく答えられないままページを閉じ、考えさせられる。

この話を勤務先の女子大学でしたところ、
学生からは「そういえば私のおかあさんもずっと立っている」とのコメント。

こんなふうに「あたりまえ」を疑う目を授けてくれる、絵本の懐の深さにはいつも驚かされる。

★ 別の絵本、『うさこちゃん ひこうきにのる』ではこんな調子。

「ひこうきにのっていたのは うさこちゃんのおじさんでした」

このフレーズを聞くとすかさず訂正、「ちがうよ、おかあさんだよっ!」。

たしかに血筋のなせるわざ、うさこちゃんの母親と叔父は瓜二つ。

しかたなく「おじさん」を「おかあさん」に、「おかあさん」を「おとうさん」に読み換えて、物語は進む。

子をともない、勇ましく空を駆る母。妻と子の冒険を、地上から見守る父。

「おてんばうさぎ」と揶揄されながらも夢をあきらめず、
持ち前のバイタリティで<男社会>に切り込んでいったある女性の遍歴が、
ひこうき雲の彼方に浮かび上がる。

「おかあさんが ひこうしで よかったわ」

ラストシーン、母の背中を見て育った娘のひとことに、
「あたりまえ」の呪縛はほどけ、男と女の境界はぼやけ、
子どもと私は目を閉じる。

■参考
だるまちゃんとかみなりちゃん 加古里子
福音館書店, 1968

うさこちゃん ひこうきにのる
ディック・ブルーナ文・絵 /いしいももこ訳
福音館書店, 1982年

だるまちゃんとかみなりちゃん (こどものとも絵本)

著者:加古 里子

福音館書店( 1968-08-01 )

うさこちゃんひこうきにのる (2才からのうさこちゃんの絵本セット1) (子どもがはじめてであう絵本)

著者:ディック ブルーナ

福音館書店( 1982-05-31 )