「男って どうして こうなの」という長年の不思議が「息子介護」研究から解けようとは思ってもみなかった。それもケアにジェンダー分析を取り入れたことで、女性の多くが担ってきたケアに、女性さえ気づかなかった、今まで見えなかった、ケアにかかわる男女差が明るみに出てきた。
ケアすることとは、「他者の生活・生存を支えるための労働」と「他者への共感や配慮」といった「世話する」ことの他に、ケアが成り立つためには女性の多くが行っている「感知すること」「思考すること」といった「感覚的活動」が必要である。「感覚的活動」とは、「この他者はどのような人物で、何を好み、何を好まないかを理解」し、「他者の状態・状況を注視したり、いま何が必要か見定めたりすること」である。また「社会関係について」考えることも含まれる。記憶や過去の経験をたどり、「ほとんど無意識のうちに複数の思考を同時進行で行う「感覚的活動」」という概念は、マネジメントあるいは「お膳立て」ということばで表され、ケア労働のジェンダー不平等を可視化するために用いられた。

男性の生活は女性の「お膳立て」の上に成り立っていると言っても過言ではない。例えば、仕事から帰ってくる夫に食事を支度するということについて分析してみる。
 食材を揃え、料理をするという前に「必要な栄養を摂れて」、最近作った料理と重ならないものは何か、と「想像しつつ、店頭に並ぶもの、現在入手可能なものを考慮しながら献立のアイディアを練ること」などに加えて、夫や家族の帰宅時間を考慮し、料理が出来上がる時間を逆算して作業に取り掛かる時間を考える。
料理などの作業と違って夫や家族の「状況・状態や嗜好」を察して「順序やタイミングを考えて作業を編成する」ことや「周囲の人々との関係が維持されるよう、調整すること」は目に見えない仕事である。「お膳立て」は目に見えないから、恩恵を受けている家族もそれを行っている本人も気づいていない。家族の中で誰が行っているのか気づくこともない。「お膳立て」は空気のようなものなのかもしれない。「下働き」とも言っていい「お膳立て」は見えないところで、ほとんど無意識のうちに、たいていは女性が行い、何事もなかったように、その上に立って男性は仕事をやる。つまり「お膳立て」(マネジメント)は、非常な時間と労力を費やす活動であるにもかかわらず、目に見えない。「ケア労働の基盤」である「お膳立て」を担わされているのは多くの場合女性であり、男性の「自立/自律」が「お膳立て」の上に成り立つ「フィクション」であることを顕わにした。
見えない「お膳立て」を可視化してくれた本書は、「無償労働」と言われてきた女性たちの自尊心を取り戻すものになるに違いない。
「誰のおかげでメシ食ってるんだ」と言われたら、「誰のおかげで働きに行けてるの」と堂々と言えるぐらい、強い味方になる。

また、この「お膳立て」はケアの受け手が異なれば新たに「相手の状況・状態や嗜好・志向に対する感知や思考」をその都度、行わなければならない。他者の状態やニーズを推測しながら、過去の経験も合わさって「引き出し」が増えていく。その「引き出し」をたくさん持っていても、「時間をかける必要がある高齢者などを複数名、世話することになれば、どれだけ多くの「引き出し」を持っていたとしても、それを使いこなす心の余裕はなくなるだろう」。つまりこの状況を処理できるかどうかはその人にケア能力があるかないかという個人の問題ではなく、「実現できるかどうか」の問題なのである。
ケアは女性向きの仕事だという時によく用いられる「道徳的判断や母的思考」は生まれつき女性に備わっているものであるというケア論が、偏見であり、思い込みであるということも本書は教えてくれる。
それでも女性が「異なる相手への世話を」果たしているとすれば、「それぞれの相手に対して感知と思考を駆使しつつ「感覚的活動」に従事しながら、それぞれの相手と個別的にケアの関係を築く営みを、生涯繰り返している」からである。女性は学習しているのである。
すべてに男と女が対称に分析された本書は、ケア労働で隠蔽されてきたジェンダー不平等を明らかにし、これまで周縁化されて見えなかった女性たちの働きにスポットライトを当てて可視化した。と同時に「男性性」を暴き、非対称で不平等なジェンダー関係を説明してくれる。
英語圏の豊富な蓄積から分析された緻密で繊細な考察は、これまでの偏見や思い込みを破ってくれる、今までにない新鮮な本である。