大潮(おおしお)が2日後に迫る、2017年3月9日。作業場のとなり部屋で昼食をとると、竹林民子さんは奥のベッドで仮眠をとった。日ごろは身体丈夫だが、「風呂に入らんとデモには出られん」と数日前に話していた。約1300回つづく祝島の原発反対デモに、1982年の開始当時から参加する彼女は、35年を経て70代半ばになった。ひじき仕事の繁忙期にデモへ出るには工夫も要るのだろう、デモがある月曜は早めの夕刻に風呂を沸かす。
星と海と人
ひじきは、地球と月と太陽が1ヶ月に2回ほど一線上に並ぶ大潮のころ、海面がもっとも低くなる干潮の時刻を待って、磯で刈る。刈りとったひじきは鉄釜で炊き、浜で干す。民子さんはチームを引き連れてひじき刈りに出るので、1回の大潮で刈った分を次の大潮までにすべて炊くのは難儀なこともある。
だが5日前の3月4日、湯の湧いた大きな鉄釜にひじきを投入し終えると、「この潮のひじきは、これで終わりじゃ」。今年はひじきの不漁ではないから、収穫量を控えたようだ。次の大潮まで少し休み、体力を蓄えようということだろうか。
ところが、翌日も民子さんは自分の釜場にいた。ひじき仕事を始めて間もない若い衆(し)の姿も見える。釜をひとつ使わせてもらって、ひじきを炊いているようだ。民子さんがさりげなく炊き方を指南する。
「民ちゃんは、釜を貸しとるんじゃ、なぁ(ない)。ひじきの炊き方を教えちゃろう、という気持ちじゃろうねぇ」
釜場の隣にある作業場の屋内で、干しあがった漆黒のひじきを手に、藤本芳子さんはそう呟いた。丁寧に秤で量って袋に詰めている。民子さんが炊いたひじきを網に広げて干したり、干したひじきを袋に詰めたりするのは、芳子さんをはじめとする友人たちだ。その時期、自然に集まる祝島の女の人で、民子さんの作業場は社交場のようになる。
不安と隣りあわせ
午後2時半ころ、民子さんが奥のベッドから起きだした。この日、3月9日は、午後3時から山口県漁協の祝島支店の組合員集会が祝島公民館で開かれることになっていた。みんな作業の手を止め、隣の部屋でコタツを囲む。饅頭を口に運びつつ、「漁協の集まりが一番ストレスじゃ」と、民子さんが独りごちた。
「海のおかげで生きてきた者が、それをどうして売られよう」
そう言ってびわ茶を飲むと、「さて、行くか」。民子さんは長靴を履いて出ていった。
コタツに残った芳子さんたちは、湯のみを手に口を動かす。「集会がオカシイことになりそうになったら、ちゃんと言うんよ。そのために、民ちゃんは集会に出ちょる」。「大事な役割だけど、たいへんよねぇ」。「ひとりが言うんじゃあ、たいへんよ。『そうだ』と言ったり拍手したりする人がおれば、いいんよね」。「今まで漁協(祝島支店)の組合員は、女の人が民ちゃんひとりじゃったけど、いまは増えたから心強い」。「今日の集まりでは(上関原発のための)漁業補償金のことは話さん、ということらしいけど、何かあったら困るねぇ」。
事件の前触れ
30分ほどで民子さんが戻った。予定どおり、集会では2016年度の仮決算について説明があったという。
「今回はじめて、中電のカネのことを言わだった(言わなかった)」と民子さん。「よかったのや」と、コタツを囲む顔が安堵した。だが民子さんは難しい表情だ。
「中電のカネ」とは、上関原発のための漁業補償金のことである。2000年の前期支払い時、関係8漁協のうち旧祝島漁協だけは受けとりを拒んだ。2006年に山口県漁協の祝島支店となったあと、2008年の後期支払い分も受けとりを拒んだところ、祝島分の約10億8000万円全額を県漁協の本店が一方的に「預かった」。それ以降、本店は支店に繰りかえし受けとりを迫るため、近年は「決算について」の集まりでも、一部の組合員から漁業補償金の話が出ては「今日の議題は違う」とゴタゴタすることが当たり前となっていた。
「話を聞いてきんさい」と促され、私は席を立った。何人かの組合員を訪ねると、集会から仕事に戻ったところだった。なにやら憤懣やるかたない様子だ。手が空くのを待って話を聞くと、「次回の組合員集会で支店の本決算を報告するとき、県漁協の本店から責任ある者をよんでほしい」という声が出たという。県漁協全体の運営状況や周辺の漁協の状況を話してほしいから、という理由である。発言したのは旧祝島漁協の元組合長だった。
落とし穴はないか
それから2ヶ月ほど経った5月。その月最初の大潮がはじまった9日の晩に、祝島で若手と呼ばれる女の人たちが集っていた。祝島支店の組合員や、その家族が多い。「明日の漁協の集まり、どう思う?」と案じている。この数年で、祝島支店の組合員は5人以上も増えていた。女の人が多い。いきなり正組合員にはなれない規則のため准組合員だが、漁協の集まりに参加することや発言することはできる。議決権はないが、それまで女の人がほぼ疎外されていたことを思えば大きな変化だ。
翌5月10日の15時から公民館で、祝島支店の組合員集会が開かれることになっていた。支店の本決算を報告する恒例の集まりで、「どうもない(心配することはない)」という話ではある。ただ、祝島支店の決算報告の集まりに本店が来ることは異例だ。落とし穴があるのではないか。
組合員に配られた集会の開催通知に、白紙委任になる委任状が同封されたことも気になった。明日の集会の内容には「報告事項」と「協議事項」しか記載はないが、万が一、何か採決をする事態になれば、どうなるか? 念のために明朝、組合員を中心に数人が、支店の運営委員長に話を聞きに行くことになった。
「ヤバイ」
翌10日。上関町内に午前10時を告げる『夏の思い出』のメロディーを、電話の呼び出し音が遮った。「ヤバイ」。橋本典子さんの声である。祝島の人家はほぼ徒歩圏。駆けつけると、典子さんと2人の准組合員が口々に話しはじめた。
「運営委員長に聞いたら、『これまでのことを考えると、県漁協の本店から人が来れば100パーセント、漁業補償金の話は出るじゃろう。ただ今日は、むこうも出さないと思う。でも、それについて話し合う場として『総会の部会』を開こうという、提案はあるだろう』と言うたんよ」
話のあいだに女の人たちが次々と顔を出した。事態を悟ると島内へ伝えに走る。幾人かは支店へ走り、話を聞いて戻った。
「支店長に聞いたら、『本店から人をよべ、という意見が出たらその通りにせんといけん、という規則はない』と。でも3月の集会で意見が出たとき、反対がなかったから、『じゃあ、よびます』と運営委員長が言うて、それが議事録に載った、だから、よばなきゃならなくなった、と言うんよ」
「その『よびます』はドサクサで言っていたし、反対が『なかった』というけど、あったよね。そもそも、他の組合員に『どうでしょうか』と意見を求めることもなかったのに」
「その後の支店の運営委員会でも、『本店から人をよぶなら、いつも祝島に来る原発問題の担当の人でなく、事務担当の人を』いう意見を出して、そうなったと聞くよ」
念のため3月の集会の議事録を確認しようと、正組合員の木村力さんが支店へ向かった。ところが「議事録は、運営委員の承認が済んでいない。印刷もまだで、パソコンにあるだけ」と言われ、その場で印刷して見せてもらったもののコピーの交付は断られたという。
支店の運営委員が確認も承認もしていない、未完成の議事録。それを根拠に、本店から人を「よばないとならない」と言われても納得しがたい。間違いなく、何かある。
招かれざる来訪者
話を聞きつけた人が、ひとり、またひとり集まってきた。「どうする?」 膝を突き合わせて話しあいが続く。
新たな知らせも届いた。本店から来るのは3人。うちひとりは、いつも原発問題で祝島に来る仁保(にほ)宣誠(むべなり)専務理事という。2013年2月に祝島支店の「総会の部会」とよばれる集会を主導して「祝島支店が漁業補償金の受けとりへ転じた」とした挙げ句、配分手続きを強引に進めようとした人である。祝島の多くの人の反発を招いたため、来島しては引き返すことを重ねており、船着場から先に入るのは約4年ぶりになるはずだ。
午後2時を過ぎた。県漁協の幹部3人は祝島へ着いていることだろう。典子さんが様子を見に外へ出ると、祝島支店から出てきた一行に遭遇した。
「なぜ仁保さんが来ているんですか?」
「本店からは今日、事務の人だけ来ると聞いているのに」
「誰がよんだんですか?」
典子さんたちは畳み掛ける。
「支店です」と返す声がした。
「支店? 私の夫は支店の運営委員じゃけど? 支店の誰? 答えてください」と、典子さんは問いつめる。
「運営委員長です」。仁保専務理事が小さく応えた。
五月晴れの祝島で、何が起きようとしているのか。
(続く)
※連続エッセイ『潮目を生きる』の前回まではこちらからご覧いただけます。
※このレポートは、WAN基金の助成を受けた取材に基づいています。