突然の衆院解散総選挙の混乱のなか、「下からの民主主義」を訴えて立憲民主党が誕生した。この古めかしい党名が、かえって新鮮に映る世の中である。
 先日、ある芸能人がツイッターで「立憲民主は民主と名前がついているんだから民の主」との“解釈”を披露して、炎上していた。この驚くべき誤解を目にした人々は、戦後の民主主義教育は失敗だったとさかんに嘆いていた。

 戦後民主主義――。それはいったいどのようなものだったのか。
 その理解の一助になるのが、11.11ブックトーク 「ミニコミに学ぶ1―『銃後史ノート』」で取り上げられる小原解子「児童雑誌の中の“民主主義”」(復刊7号)だ。
 戦後の児童文学を舞台に、大人たちは「まっ白なカンヴァス」として子どもをみて、新しく導入された民主主義たる概念を植え付けようとする。それは戦争中の「少国民文化」が大政翼賛であったのと同様、「翼賛型民主主義」なのだと著者はいう。「『民主主義』という言葉をまるごとのみこむのではなく、かみくだいて、その中でどう生きるのか自らに問いなおす必要が(ある)」という表明は今日性を持つ(つまり、今日まで「翼賛型民主主義」で来てしまった?)。
 敗戦後、日本国憲法と改正民法の制定によって家制度が廃止され、家庭が民主化される過程を追った植田朱美・香川福子「民法改正―家制度の廃止をめぐって」(復刊7号)も読んでみよう。

 民法改正反対派は家制度を残し、人に上下をつける社会を家庭の中に作り、国家秩序を維持するのに利用しようとした。対する改正賛成派は、一人一人が自由で平等な立場から民主的家庭生活を営めることを望んだ。民法改正を担当する委員会に入った村岡花子の、
「民法の上での家族制度の枠を取外すというということは、本当の意味に於て沢山の人達の幸福になる」
「婦人全体の声を聴きますと、一戸主権というものを中心にして、戸主が総ての権利をもって婦人を圧迫している、こういう法律上の家族制度がなくなるということは何という嬉しいことだろうか」
という素直な心情の吐露には心を打たれる。
 たしか、私が息子を妊娠していたころだったと思う。あるファッション誌のなかで、ブックトークに登壇する川上未映子さんの記事を読んだ。子どもを持つことを迷っていた川上さんに、夫が「この世界に生きている子どもたちに新しい仲間を増やしてあげることは、素敵なことなんじゃないか」と話し、それに納得した、というくだりが心に残っている(私の頼りない記憶力をもとに書いているので、不正確であったら大変申し訳ない)。子どもをもつことをこのように意味づけられるんだ、とはっとした。

 妊娠すること、子どもをもつこと。それらの意味を個人的に意味づけることができるのは、いまが家庭の民主化を経た時代だからだ。それが許されない時代があった。家制度の中で、女性は子どもを家と国のために産み育てるものであり、生まれた子どもは「天皇の赤子」であったりした時代だ。そんな世の中は二度とご免だ。
 残念ながら当日の参加はかなわないが、地球の反対側の国から、動画配信を心待ちにしている。