上野千鶴子、蘭信三、平井和子編『戦争と性暴力の比較史へ向けて』(岩波書店 2018年2月)

 「語り得る過去と、語り得ない過去と」、時を経て編まれるべくして書かれた比較史の一冊。

 始まりは1991年、元「慰安婦」の朝鮮女性・金学順さんが名乗り出て、日本政府に損害賠償請求裁判を提訴した事実に遡る。その前後から、尹貞玉さんらによる聞き取りと歴史学者や作家による「戦争と慰安婦問題」研究がなされていく。本書は、それらを海外の著作も含めて「戦争と性暴力」を比較歴史学の観点から繙き、オーラルヒストリーの意義とも交差させ、編著者らの共同研究による、熱意のこもる労作となった。

 記憶と証言の違い、そこに当事者自身のエイジェンシー(行為主体者)の意思を見いだそうとする執筆者たちの試みがいい。「ふつごうな真実」という加害の記憶やトラウマ的な被害の記憶がある。「戦争と性暴力」は、歴史学に、その記憶と証言を否応なく持ち込んだ。それは歴史学を豊かにする一方、記憶と証言をめぐる複雑な問題系をいっきょにもたらした。そこには「ふくざつなことをふくざつなままに」語る話法しか方法はないのだろうか?

 本書の構成は、序章で上野千鶴子が、「戦争と性暴力の比較史の視座」を提起する。第Ⅰ部「「慰安婦」の語られ方」、第1章「韓国の「慰安婦」証言の聞き取り作業の歴史」で、山下英愛は、記憶と再現をめぐる取り組みの困難さを語る。韓国で日本軍「慰安婦」への聞き取り調査が始まったのは、1992年春。すでに挺身隊研究会で聞き取りを始めていた尹貞玉の仕事を受け継ぎ、客観的歴史資料としての「記録」と、当事者の「証言」が揺れ動くなか、著者たちは「尋ねる」から「聞くこと」へとハルモニたちの心の言葉を、「聞かなかった言葉」を聞こうとする姿勢に立つ。

 第Ⅱ部「語り得ない記憶」、第5章で茶園敏美は「セックスというコンタクト・ゾーン」を日本占領の経験から追いかける。レイプの「モデル被害者」=被害者が性的に無垢であり、なおかつ激しく抵抗したか抵抗を奪われたと語ることができる被害者として、戦後、彼女らが自らエイジェンシーを獲得していくさまを描いていく。

 第7章「引揚女性の「不法妊娠」と戦後日本の「中絶の自由」」で、樋口恵子は、敗戦から5カ月、釜山からの引揚船の中で母子が船から身投げをする光景を目にした原ひろ子の11歳の時のエピソードを、1994年、カイロ会議で初めて原から聞く。引揚女性の性被害と引揚港の検疫で「不法妊娠」と診断された女性たちへの対応を、最近、ようやく医師たちが語り始めた。しかし当事者女性たちの声は今も、ない。その女の歴史が、70年代の「産む・産まない」の自己決定権へとつながり、1994年、国際人口開発会議のカイロ「行動会議」で、性と生殖に関する「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」の採択に結びついたことは忘れてはならない。

 第Ⅲ部「歴史学への挑戦」、第10章、蘭信三の「戦時性暴力被害を聞き取るということ」は、石田米子・内田知行編『黄土の村の性暴力――大娘たちの戦争は終わらない』とともに、とりわけ印象深く読む。語り手と聞き手との「対話」の中で性暴力被害の記憶から解放される「モデル・ストーリー」が構築される過程が、オーラルヒストリー論の視座から明らかにされる。「一人ひとりがどのように自分の被害を感じ、どのように語ろうとしているか」にこだわりつつ聞いていく。しかも語られる体験はジェンダーバイアスがかかる。だが、「対話」のなかからやがて双方の「物語」が生まれてくる。ついに彼女らは「自分は悪くない」という自信を取り戻し、自らの被害を「解放」の物語として語れるようになっていったという。

 本書を読みながら胸が塞がれ、途中で頁を閉じてしまうこともあった。しかし、これはどうしても語られなければならなかった歴史と事実なのだ。戦後73年、もう語る人々が、いなくなってしまおうとする今、この本が世に出たことの意味は大きい。この結実を、若い人たちが、ぜひ受け止めていってほしいと夢を託して、分厚い本を読み終えた。