
いつものように喫茶店の片隅で本を読む。古川佳子著『母の憶い、大待宵草 よき人々との出会い』(発行・白澤社 発売・現代書館 2018年3月)。
卒寿を超えた古川さんとは「ふぇみん・婦人民主クラブ」の総会で、ときたまお会いする。おっとりと静やかな古川さんの、「語り」のような、そしてなにより「自由を奪うものへの抗い」を描く文章に、読んで、ホロッと涙がこぼれた。
偶然の出会いと必然の出会い。50歳からの後半の人生に、市井の「よき人々」との出会いが待っていた。神坂哲・玲子夫妻、松下竜一、伊藤ルイ、竹内浩三、そして父・謙蔵と母・和子、夫・二郎のことが、淡々と語られる。1990年、「即位の礼・大嘗祭」違憲訴訟を提訴した「反天皇制市民1700人」ネットワークの機関紙の連載記事(2009年~2017年)を収録したもの。「跋」を田中伸尚が書いている。
3年前に心筋梗塞で倒れた後も、季節を運んできてくれるような、たおやかな手紙を、よき人々に、今もマメに送られているという。
母・和子は、昭和21年5月と6月に啓介と博の戦死を知る。
「是れに増す悲しき事の何かあらん亡き児二人を返せ此の手に」
竹内浩三はフィリピンの戦線に赴く直前、友人に送った手紙に、「骨のうたう」の詩を挟んだ。その一節から引いた「戦死ヤアハレ」の詩碑が、伊勢朝熊山上の竹内家の墓地に建つ。詩碑建立の記事を読み、竹内浩三が、次兄・博と同じ部隊にいたことを知るという偶然。
箕面の家の近くの神坂哲・玲子夫妻からの誘いを受け、「箕面忠魂碑訴訟」を、原告として共に闘った強い意思。書物や運動を通じて手紙の交流を深める松下竜一や伊藤ルイとの必然の出会い。すべては戦争で二人の息子を亡くした母・和子の憤怒の思いが、その人々との糸を結んでいったのではないかと思う。
「箕面忠魂碑訴訟」は、箕面小学校の忠魂碑移転、移設に伴う市の関わりが「憲法20条及び89条の政教分離原則に反する」と、1976年、市民が起こした住民訴訟。82年、大阪地裁は忠魂碑の宗教的性質を認め、住民側勝訴の判決となったが、1983年、大阪高裁はその判決を退け、1993年、最高裁も上告を棄却。1999年、最高裁で原告敗訴が決定した。
婦人民主クラブは、第一審勝訴後の1983年以来、訴訟支援をずっと続けてきた。集会でお会いする神坂玲子さんの、毅然とした理路整然たる報告を何度お聞きしたことか。原告の古川佳子さん、羽室浩子さんも婦民箕面支部員。みんな市井の穏やかな方たちばかりだ。弁護士に頼らない素手の闘い。まさに松下竜一の言う「ランソのヘイ」のように。裁判所が恐れる「濫訴の弊」とは、庶民があちこちで提訴することを「弊」とし、それを避けようとする意。松下はこれを逆手にとり、自ら「濫訴の「兵」」となり、燎原の火の如く、反原発運動を各地で広げようと呼びかけた。
箕面忠魂碑訴訟第一審で違憲判決を出した大阪地裁・古崎慶長裁判長は、その直後、右翼に襲われるが、「裁判官は慣行や圧力に屈せず、独自の判断を下すことが、司法における言論の自由であり、真の司法の独立だ」と発言した。ほんとに今の裁判官たちに聞かせてやりたいセリフだ。
弁護士のいない素人訴訟に、その後、助っ人として若手弁護士の加島宏が加わった。まあ、びっくり。彼は大手前高校の1年先輩、スポーツ万能、成績優秀、女の子たちの憧れの人だったのだ。東大卒業後、インドネシアでボランティア活動をしていると風の便りに聞いてはいたが、弁護士として忠魂碑訴訟に加わっていたなんて。
1986年、神坂哲が急逝。息子の直樹さんは1994年、司法修習修了後、裁判官を志望するが、当訴訟の原告補助参加人を務めたことを理由に裁判官任官を拒否される。最高裁(国)を相手どり、取消訴訟・国賠訴訟を起こすが、2005年、敗訴決定。現在は予備校講師を務める。
『豆腐屋の四季』の松下竜一との出会いは、『檜の山のうたびと』『五分の虫、一寸の魂』『風成の女たち』を読み、古川さんが著者に手紙を送ったことがきっかけとなり、その後の長い、長い手紙の交流が続く。箕面忠魂碑訴訟の原告となってからは、それぞれの裁判を闘う同志となった。
「紡ぎ人」と古川さんが呼ぶ伊藤ルイは、大杉栄・伊藤野枝の四女。松下竜一の『ルイズ――父に貰いし名は』(1982年、第4回講談社ノンフィクション賞)でも、よく知られる。
1974年、「東アジア反日武装戦線」狼・大地の牙・さそり3グループによる企業爆破事件で逮捕された大道寺将司、益永利明に、最高裁が死刑判決を下したのが1987年。支援のためのTシャツ訴訟の裁判で原告団長となった伊藤ルイは、死刑制度を考える会「うみの会」の代表でもあった。
1995年、ルイは、その裁判の原告側証人として証言台に立つ。「彼らの成したことを、何をどう記憶するかは、その人の人格である」と言い、「それを私の人間としての核としたいと思います。73歳、伊藤ルイの遺言です。終わります」と証言し、その9カ月後に亡くなられた。1989年、桜の季節の吉野の山を、ルイさんと二人で訪れた時の古川さんの文章が、いい。
横糸と縦糸をつなぐような人々の出会い。事の真実を見る目と、それを伝える力と、手紙や書物を通じた交流のあたたかさと、そこに流れる信頼。合間に季節の移り変わりや時の流れを彩る庭の花々を描き、「人としての倫理の核」をうたう短歌が、行間をグッと引き締めてくれる。いい文章だ。
「家庭の人」だった古川さんが、忠魂碑訴訟にかかわり始めたのが49歳のとき。専業主婦だった私が、思いがけない離婚を経て後半生を歩みだしたのが46歳のとき。それからの「よき人々」との出会いは、なんと豊かなものだったかと思う。
「よきひとのおほせをかふりて信じるほかに別の子細なきなり」(『歎異抄』)。
親鸞にとっての法然は、そのような「よきひと」であった。「よき人々との出会い」とは、ただそれだけ、信じることのほかに何もないと、改めて、そう思う。
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