2012年から始めた年配女性たち10人の読書会、もう8年目を迎える。上野千鶴子著『ケアの社会学』『家父長制と資本制』『生き延びるための思想』『女ぎらい ニッポンのミソジニー』。岡野八代著『戦争に抗する』、若桑みどり著『戦争とジェンダー』、西川祐子著『古都の占領』、そして今年は初めての男性の著書、平山亮著『介護する息子たち』を読む。

 今月は私のお当番。「第一章 息子介護の分析視角――ケアにおけるマネジメント、関係としてのケア」のレジュメをつくる。

 ちょっと難解。Mason, Jenniferの「ケアの理論」を手掛かりに「介護のジェンダー非対称性」を説明する方法論。 「世話すること」(caring for)と「気遣うこと」 (caring about)のケアの二分法ではなく、「感覚的活動」(sentient activity)を重視しようと、著者はメイソンの説を支持する。

 「感覚的活動」とは? ケアという「名もなき仕事」を、「感覚的活動」(sentient activity(SA)」、つまり「感知すること」「思考すること」でとらえ直そうと。「感知」とは、今この状況で、この人に何が必要なのかに気づくこと。「思考」とは、その人に必要なもの、必要なことを与えるにはどうすればよいのか考えをめぐらせること。

 こんなこと、とっくの昔に女がやってきたことやん。だけどケアは、これまで「与え手」が「受け手」の生活・生存を支えることばかりに目がいき、自分と相手との関係への思慮や調整が大切であることが、なぜか見えなくされてきた。それを「可視化」していかなければ、という。

 あ、そうか。「見えない」営為こそが、(性)差別の根源なのだ。見えない差別を「見える化」する方法論の一つが、「関係としてのケア」の視点だ。異なる生活歴や背景を生きてきた他者との「心地よい関係」をつくるためには、これまで「無償労働」や「愛の労働」とされてきたケア労働を、ただフェミニズム的に批判するのではなく、それを超え、「介護する人と、される人」の双方が、互いに「もっとよく知り」「気づき」「考えあう」こと。そのためにはケアを「タスク(仕事)」としての知識や技能ではなく、あたりまえの「知恵」や「工夫」を駆使することこそが必要ではないか。たとえ認知症になった人でも最後まで残るという「喜怒哀楽」の感情を大切に、互いを受け止めあう関係。それがケアをめぐる「性」差別をなくし、人とのあるべき関係をつくっていく基本となる、と読み解いて、ちょっと納得。

 マネジメントとしての「感覚的活動」は、ケアが首尾よく行なわれるよう状況を設定し、順序やタイミングを考えて作業を編成すること。それを通して他者との関係が維持されるよう調整すること。それは潜在的に、だが確実に誰かがマネジメンントしてきたはず。たとえば母親が子どもの食事をあれこれ工夫して「ごはんをあげる」ように。それは女たちがずっと担ってきた「名もなき家事」なのだ。

 「名もなき家事」についての男女別比較のアンケートによると、たとえば「食事の献立を考える」「調味料を補充・交換する」「手洗い場のタオルを取り替える」など、夫はそれを家事とは思わず、妻がその作業の9割を担うという男女間の認識のギャップがあるという(山本久美子『SUUMOジャーナル』2017年5月24日)。これだって女にとっては自明のことなのに。

 このマネジメントにおけるジェンダー不均衡を、著者は息子介護を分析する視角としてとらえる。

 母親をケアする男が既婚者の場合、妻の配慮や調整で「お膳立て」された上で世話をするだけ。それを男は「俺はケアをしている」と自慢げに言う。あるいは母親の庇護のもとに依存してきた息子が、要介護になった母親をどうしても認めることができず、究極、母親への暴力にもつながりかねないこともある。

 著者は「男性学」にも批判の目を向ける。要介護状態の母親への暴力が、男の「腕力」や「コミュニケーション不足」ではなく、男の女性(妻や母親)への「依存性」にこそ、目を向けよ、と指摘する。それがジェンダー構造の変革への糸口だという。それはそのとおりだと思う。

 ケアが関係である以上、「相手が異なれば関係としてのケアの様相はそれぞれ異なり、別の相手に直ちに転用可能なケア経験はありえない。女性が生涯のあいだにさまざまな他者への世話に携わっているのだとしたら、それは彼女たちがそれぞれの相手に対して感知と思考を駆使しつつ、「感覚的活動」に従事しながら、それぞれの相手と個別的にケアの関係を築く営みを、生涯を通じて繰り返している」ことになる。

 そうなんだなあ。自ら望んで義母の看護をしたいと、もと夫に頼んで千葉から京都へ移り住むのを選んだのは私。33歳から5年間の看護。義母は65歳でがんの手術を受け、声帯を失くして70歳で亡くなった。その看取りに一つも悔いはない。ただ小学生の娘にちょっと寂しい思いをさせたかなと、今になって反省するも、後悔、先に立たず。

 主治医からの容態の説明に「俺がいくより、お前が聞いてきた方がいい」と命じた夫。それも母の病気を認めたくない息子の心理なのか。痰の吸引も「俺は、ようせん。お前がやってくれ」と任せる。男は、いつも逃げるのだ。逃げ道を許してしまうのもまた女。「私がやった方が早いから」と、つい何でも片づけてしまう私も、よくないのだけれど。これも別れてからの反省の一つ。

 その40年後、95歳の母とその妹・92歳を熊本から京都へ迎え、世話をするのを選んだのも私の自由意思。今のところ何とか二人で元気に暮らしてくれている。

 相手は一人ひとり性格も生育歴も違う。義母は生粋の京都のひと。気っぷがよく、若い私に京都のしきたりのあれこれを、きちんと教えてくれた。母は子どもの頃からのお転婆で「いやなものはいや」と、はっきりと言う。叔母は独身で一度も家を出たことがなく、引っ込み思案だけど、家では気ままに振る舞う。それぞれへの対応は、なかなか難しいけど、知恵と工夫があれば何とかなるもの。

 関係としてのケアは、人と人との関係と同じ。こちらが心を開けば、向こうも心を解いてくれると信じつつ。

 やがて私も、ケアの「受け手」になるのも、もうすぐその先。それまではお互いに、できるだけ元気でいたいなあと思っている。

介護する息子たち: 男性性の死角とケアのジェンダー分析

著者:平山 亮

勁草書房( 2017-02-16 )