97歳になる母が部屋で転んで骨折した。
3月19日(金)午後6時前、トイレに立とうとして、よそ見をしてすべって転んだらしい。94歳になる叔母からケータイに電話があり、かけつけると「痛い」といって座り込んでいる。車椅子に乗せて近くの整骨医院につれていこうと電話をすると、「手術の可能性があるので救急車で」といわれて救急車で近くの京都第二日赤病院へ。初療室には次々と救急車で運ばれてくる人たちでいっぱい。看護師さんの応急措置やレントゲン、CT検査の結果、担当医から「大腿骨転子部骨折」と診断を受ける。手術を受けなければいけないようだ。その後、簡単な入院手続きを済ませ、病室に運ばれたのが11時過ぎ。車椅子をもって家に帰ったのが夜の12時だった。
翌20日(土)朝8時、担当のドクターから電話があり、歩いて15分の病院へすぐにいく。22日(月)夕刻、手術予定。施術について丁寧な説明をいただき、同意書を書く。母は2015年に心臓にペースメーカーを装着しているため、慎重に対応してくださる。若いドクターの行き届いた配慮にホッと安心する。朝のうちに入院中の簡単な手荷物を用意していたので、看護師詰め所にお預けする。今はコロナ禍のもと、家族も一切、面会できないのだ。病室の入り口には名札もない。仕方がないなあ。
そんな最中に、来週からマンションの専有部給排水・給湯管工事が始まる。私の部屋と、母と叔母の部屋と、娘と孫の部屋それぞれで3日間、工事のため、各部屋の下駄箱、物入れ、トイレ、洗面所、お風呂場、台所のシンクやガステーブルの下のものを片づけないといけない。日曜日、用意したダンボール十何個に荷物を詰めて娘と二人で準備する。くたびれたけど、この時とばかり断捨離に努めて少しスッキリした。
22日(月)午前11時、手術に向けて麻酔医から詳しい説明を受け、同意書を書く。夕刻になり、手術は明日かなと思っていたら、「7時半から手術を始めます」と直前に病院からお電話があり、すぐに駆けつける。手術が終わったのが夜10時10分。ドクターから手術の無事成功の報告を受け、手術室から運ばれてきた母に「峰子よ」というと、「ああ、よう来たね」「明日から会えないから、毎日、孫のゆいちゃんが手紙を書くから読んでね」「アハハ、楽しみに待っとるけんね」と元気そうな返事にホッとひと安心。
23日(火)。退院支援室から電話をいただき、転院後のリハビリ病院のリストを見せてもらって、希望する病院を数院上げて予約をお願いする。院内リハビリもそろそろ始まるらしい。
毎日かかさず、小学5年生の曾孫が手紙を書き、絵を描いて、摘んできた四つ葉のクローバーを添えて、15時~16時の限られた面会時間に看護師詰所に届けにいくのが日課。「お孫さんからのお手紙よ」と看護師さんが手渡してくれるとニコッと笑って、じっと読んでいるのがカーテン越しにチラッと見える。だけど、100歳近くにもなると、なかなか思うようにはいかない。術後の回復はいいが、どうも食事が2割ほどしか進まないらしい。
たまたま偶然、廊下で車椅子に乗った母と出会った。マスクを外して「峰子よ」というと、開口一番、「なんで会いに来んとね」と睨んで怒られる。「コロナで会いに来られないのよ」といっても通じない。看護師さんは「見て見ぬふりをしますからね」といってくれて、「カレンダーと時計とラジオとテレカと酢コンブと飴をもってきてほしいそうです」と、パソコンの連絡事項からメモをいただく。「私は熊本の女だけん、意地は強かですよ」と看護師さんにしゃべっているらしい。笑って、そう伝えてくれた。
術後2週間、ドクターに呼ばれた。血液検査で小さな肺血栓塞栓症が見られるので血栓を溶かす薬を処方すること。食事が2、3割程度しか進まないこと。この後、万が一、合併症や心肺停止などが起こった場合の対応を問われる。「胃ろうや延命措置はしない」と母は遺言書を書いている。「そうなったら自然のままにお願いします」と伝える。体力をつけてリハビリの後、退院後の選択も尋ねられ、「できるだけ自宅で」と答える。その後、ケアマネさんに相談すると、すぐに在宅に戻れない場合、「在宅に向けて3カ月滞在型の介護老人保健施設や介護療養型医療施設の選択肢もある」と伺ったが、今は何よりしっかり食べるのが一番。家では孫にいわれてよく食べていたのが、今は会えないから、そばで「食べなさい」といえないのが、なんとももどかしい。
母は大正12年9月、関東大震災の年に生まれた。母の父が、娘が生まれた日に「女性飛行士が空を飛んだ」という新聞記事を見て、その女性飛行士の名前から「フサ」とつけたという。爾来、母はおてんば娘に育ち、子どもの頃はママゴトやお人形遊びは大嫌い、男の子と喧嘩をして泣かせてくる毎日。男の子の母親が文句をいいにくるほどだったという。リレーはいつもアンカーを走り、走り幅跳びで九州一位になったこともある。私は母とは全く逆に、まるきりの弱虫。子どもの頃、いつも泣かされて帰ってきていた。庭先でタライに洗濯板でゴシゴシ洗っていた母は、泣いて帰ってくる私を見て、「また泣かされたの。たまには相手を泣かせてきなっせ」と一喝。怒られてまたワーワーと大泣きしたものだった。あの意地を、もう一度見せてほしい。元気に戻ってきてね。
府立植物園の並木
もう一人の94歳の叔母は幸い、元気でいてくれる。母と二人、並んでフィンランド製の座り心地のいい椅子に座ってテレビを見ていたのが、話し相手がいなくなり、手がかからず楽になったものの、その分、物忘れが進んだようだ。毎日、病院の報告をすると、「姉さん、なんて言ってたの?」と繰り返し聞く。「今は面会ができないのよ」と何度いっても忘れるらしい。まあ、それもいいかな。記憶が残らなければ、母のことを心配して落ち込むことも、あまりないのだから。孫が代わりに食事時に、あれこれクイズを出しては叔母に頭の体操をしてくれる。叔母にも時々、手紙を書いてもらう。私もそれに一言添えてもっていく。
いけない。私が、あれこれ先のことを考えるとキリキリと胃が痛くなってきた。これではいけないと養命酒と漢方の「安中散」を飲み、娘と叔母と相談して、母の今後のおおよその方向性を決めたら、ようやくマシになってきた。まずは私が仕事も無理をせず、よく眠ること、規則正しく暮らすことだ。
4月の日曜日、あまりいいお天気なので娘と孫と植物園へ出かけた。今年の桜は早くも散り始め、芍薬や牡丹が咲き始めていた。叔母にカスミ草やなでしこなど小さな植木鉢を2、3種、お土産に買い、帰り道、病院にたち寄って、母への手紙と孫の絵を看護師さんに託して帰ってきた。


このところ、しみじみと読んだ本が2冊ある。ちょっと古いが、高森和子著『母の言いぶん』(鎌倉書房、1986年)は、昔、ラジオやテレビで活躍していた高森和子が、呆けてしまった我が儘な母を家で看取った思い出を淡々と記している。もう一冊は養老静江著『ひとりでは生きられない 紫のつゆ草-ある女医の95年』(鎌倉春秋社、2003年)。養老孟司の母・静江自身が書いた、90代まで現役の女医として貫いた一代記。恋あり、涙あり、実にロマンチックで爽快な女の物語だ。1994年、荻野吟子賞受賞。1995年、96歳で逝去。
本は、いつも読者にとって、その時々の読む者の気分にあわせて心に添うように応えてくれる。そんな本とのめぐり合いが、とってもうれしい。
いつかゆく道。同じように、また私も、いつかゆく道を行くだけのことだ。


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