今月は、フィンランド出身のカイヤ・サーリアホ(Kaija Saariaho) をお送りします。1952年、ヘルシンキに生まれ、現在はパリを拠点に活躍を続けており、日本との縁も浅からず、今年の6月には東京文化会館でオペラが上演されました。

 実業家の両親はヘルシンキで家業を営み、音楽も好みましたが、とりわけ美術全般に造詣が深く、フィンランド人作家の絵画や、時には海外の作品収集を趣味にしていました。そんな両親の影響を受け、サーリアホも音楽と絵画に興味を持ちました。9歳でバイオリン、間もなくピアノも習い始めます。一般教育はシュタイナー学校 で学び、18歳で地元の音楽専門学校に通います。ただ、パフォーマーとして舞台に立つ喜びは感じないと思っていたそうです。

 とは言え、音楽に興味がなかったわけではなく、ちょっとうたた寝をしているとメロディーが頭の中で鳴っており、枕かベッドの下から音がしているのか?と、長いこと怪訝に思っていたそうです。

 10歳で初めて作曲をしました。引き続き、ヘルシンキ音楽院やヘルシンキ大学でピアノ、オルガン、そして音楽学を専攻しました。名門シベリウス音楽院では音楽理論と作曲を専攻します。



 現在でこそ、ジェンダー平等の進んだフィンランドですが、時は1970年代、女性の作曲専攻は広く門戸が開かれておらず、サーリアホは唯一の女子学生でした。それでも作曲教授のPaavo Heininenは彼女の熱意と才能に、空きのなかったクラスに特別に入学を許可しました。教授の指導とサポートには、生涯忘れられないほどの恩を感じていると語っています。

 シベリウス音楽院は、学生支援として様々な分野で社会との連携をしています。1977年には、サーリアホのほか、現在は指揮者として大活躍のエサペッカ・サロネンなどの学生たちが、「Korvat auki ! (Open your ears !)」と名付けた現代音楽の実験的集団を運営し、コンサート、討論会、ワークショップ等で活動しました。79年〜80年はサーリアホが代表を務め、サロネンと連携しました。

 1980年、音楽院卒業後はドイツのフライブルグで学位を取り、ここからパリのIRCAMに所属する道が開け、作曲家としてのキャリアが始まりました。当時はサーリアホが唯一の女性の作曲家でした。

 IRCAMは、L'Institut de recherche et coordination acoustique/musique--国立音響音楽研究所と言い、ポンピドゥー大統領政権下の1970年頃、近現代の芸術に造詣の深い大統領の名を冠したポンピドゥー・センターが設立され、その傘下の研究所として、P・ブーレーズ(1925--2016/指揮者・作曲家)が創設に尽力し、初代研究所長も務めました。


 当時フランスに台頭していたのは、既存の楽器類と電子音楽を融合させた華やかな音楽技法でした。サーリアホは和声感、色彩感、テクスチュア等を模索することで幅広い表現技術を身につけ、次第にオリジナリティを確立して行きました。

 最初のオーケストラ作品は、「Verblendungen」(1984)、始まりが衝撃的な、いわゆる前衛的サウンド。「Lichtbogen--光の弧 」(1986)は、フルートをはじめ9人の奏者とライブ・エレクトロニクスの作品で、静謐さに漂う"揺れ"が素敵な作品です。

 IRCAM所属後は、徐々に作風が変化していきました。長いコロナ・パンデミックのために上演が延期されていた「Innocence」が、今月、プロヴァンスの音楽祭で世界初演され、ライブストリームが成功裏に終わりました。この他、作品は実に120曲余を数えており、オーケストラやオペラ作品の他、フルートやチェロを起用した作品も多数です。

 1984年にはパリで結婚します。お相手は、IRCAMの教育部門に所属する作曲家のJean-Bastiste Barriereです。2人の間には89年と95年に生まれた2人のお子さんがおり、少なくともお子さんの1人はフィンランドに暮らしており、故郷に子供に会いにいくのは嬉しいと、サーリアホは語っています。

 レジテントコンポーザーとして各国に招聘され、1997年〜98年はシベリウス音楽院で夫婦共に客員教授をつとめました。88年〜89年はサンディアゴ、そして93年には京都で、日本の伝統文化から大きなインスピレーションを受けました。ここから、禅寺をイメージした作品「6つの日本庭園」(出典参照)が誕生します。この他にも武満徹作曲賞の審査員として、またオペラ作品「Only the sound remains---余韻」 の上演にあたり、今年6月にも来日しました(出典にチラシ)。


 2016年には、NYメトロポリタン・オペラが、メト初演の「L’Amour de Loin」を上演しました。1903年のエセル・スマイスのオペラ上演以来、実に2人目の女性作曲家起用となり、期待を裏切ることなく観客を魅了しました。NYタイムズのインタビューでは、「作曲を続けることは厳しい道のりでしたが、私のキャリアもすでに長く、2016年のこの時代に、今もって女性の作曲家に特化した質問を受けるとは信じがたいわ!」と語っています。

 メトロポリタン・オペラ座は、指揮者J・レヴァイン(1943 -2021、3月没)が長期にわたり活躍し、レベルアップに貢献しました。一方すでに1980年代から、少年への性的犯罪疑惑(ペドフィリア)で複数の被害者たちによる刑事告発がなされてもなお、本人は疑惑を否定し続け、オペラ座も何事もなかったかのように彼を雇い続けました。泥沼の争いの末、レヴァインも一部を認め、2018年、メトは彼を解雇しました。世界の文化の最先端を行くニューヨークにして女性作曲家のオペラ上演が少ないのは、運営側の保守性にも起因するのかと、これは単に筆者の考察です。


 最後に、2013年、カナダの名門マギル大学での講演録をご紹介します。

 『女性が生きていくには、実に様々な道を通らなくてはいけません。生まれながらに左利きの私ですが、他にもマイノリティの要素を持つ者として、作曲を始めた初期は多くのバトルをくぐり抜けてきました。
 でも現在の音楽界における女性の立場は、私の時代より改善していると感じていたのです。そのため、この30年、作曲家として、女性として自分が受けてきた差別や偏見は、黙して語らずここまで来ました。
 しかしながら、最近フランスを代表する名門音楽院長が”女性は生まれつき指揮者に向いていない”と発言をしたことが世間に取り上げられました。この発言から、若い世代の女性たちは、今もって差別や偏見と戦い続けていることを深く思い知りました。社会のあらゆる分野に、疑いもなく既成概念を好む人が大勢いるということです。現状打開を試みている分野もありますが、大方は既定路線を堅持しています。
 私たちの社会は、もっと深い真の人間性を希求し、そこに目を向けることで、強いて言えば、未来の子供達に大きな影響をもたらすと感じています。ジェンダーバイアスや男性優位主義は、個々の人々の生き様に大きな障害をもたらします、個々の人生に社会的障壁を設けてはいけないのです。マギル大学を始め、各国の教育機関がこの問題をオープンに語り、改善して行くことを願ってやみませ ん。』

 筆者より:「陽の当たらなかった女性作曲家たち」シリーズⅢは、今月をもって終了します。今シリーズもお読みいただき、ありがとうございました。想像を超えたコロナ禍の世界では、各国の物流が滞り、注文の楽譜が届かず、取り上げるのを見送らざるを得なかった作曲家も数名いました。またの機会が訪れますことを願っております。


出典:
Kaija Saariaho web: https://saariaho.org
カイヤ・サーリアホ 東京文化会館
  https://www.t-bunka.jp/cms/wp-content/uploads/2021/01/210606_m.pdf
シベリウス音楽院ウエブ
 https://www.uniarts.fi/en/units/sibelius-academy/
Henkilöhistoriaa in English
https://kansallisbiografia.fi/english/person/1515
Meet one of Finland's greatest living composers: Kaija Saariaho
https://www.wqxr.org/story/kaija-saariaho-under-lens-trailblazing-composer/
Six Japanese Gardens
https://www.youtube.com/watch?v=bQLA4cUv1IQ
Only sound remains Trailer,
https://www.youtube.com/watch?v=kMxbhf6btYg
Wikipedia, Women in Music. Sexism, Racism, and Gender Discrimination
https://en.wikipedia.org/wiki/Women_in_music
フランスの音楽院長の発言も含め、下段に各国の状況説明があります。
「フィンランドの子育て支援「ネウボラ」を日本で」
WANサイト連載(五嶋えりな)
https://wan.or.jp/article/show/8764


 この度の作品演奏は、ピアノ作品「バラード」2005年作。ピアニスト、E.アックスによる委嘱作品です。リストやブラームスのバラードの他に、サーリアホと中国出身のチェン・イに新作を依頼し、”バラード”と冠したコンサートを開催しました。