昨年6月、97歳9カ月で亡くなった母の一周忌を前に、熊本の実家のお墓に納骨のため、5月3日~5日、娘と孫娘と旅に出る。

 2018年夏、母と叔母を熊本から京都に呼び寄せ、翌2019年夏に二人を連れて帰熊してから、コロナ禍で動けず、3年ぶりの熊本行きとなった。(暑中の「家族大移動」(旅は道草・103)

 95歳の叔母は、長旅がちょっと心配なので、今回はショートステイにお願いした。同じマンションの男友だちに、介護タクシーの見送りと出迎えと帰宅後の叔母の夕食を一品、つくってもらう。ほんとに助かるぅ。行く前の叔母の準備が大変。目の前で名前を書いた着替え2組と日付を入れた薬を準備しても、また何度も自分で準備を繰り返す。それでも初めてのショートステイで、話が合う人と一緒にお食事をできたらしく、帰宅後、お礼の電話をかけると、「機嫌よく楽しそうに過ごされていましたよ」と伺い、ホッと安心。よかった、よかった。

 新幹線はコロナの規制がなくなったせいか、どの列車も満席、大勢の家族連れで賑わっていた。

 母の実家、叔母の家は、熊本の「古町」・東阿弥陀寺町にある。泊まったANA Crowne Plaza Hotel 熊本ニュースカイの真向かい。1877年(明治10年)の西南戦争の戦火が見えたという、築150年の古い家。2016年の熊本地震で、すぐ隣のお寺は全壊したが、叔母の家は奇跡的にどこも壊れず、母屋も中庭も無事だった。時々、家の風通しをしてくれる従姉妹と共に、家の裏の墓地に母の分骨を納めた。

 従姉妹の車で江津湖近くの母の家へ行く。庭木の剪定を、いつも植木屋さんに頼んでいる。木々の茂みの陰から、ヒョイと黒猫が顔を見せた。どうやら近くの飼い猫らしい。「母の家を守っていてね」と声をかけると、「ニャーォ」と小さく啼いてお返事をしてくれた。

 娘と孫は近くの動植物園へ。ちょうど「花と緑の大博覧会」のさなかだった。その間に私は、八景水谷(はけのみや)の従姉妹の家へ向かう。従姉妹は、長年、病気だった50代の次男を4月15日に亡くしたばかり。仏壇にお参りをして、彼女の思いをじっくりと聴く。夜は娘たちと4人で、ゆっくりホテルの夕食をいただく。「みんな、元気でいなければね」と、つくづく思う。

    熊本城天守閣と大銀杏

        崩れた石垣


 翌4日は、天守閣の復旧が終わった熊本城へ。400年前、加藤清正によって築城された熊本城。西南戦争直前の火災で焼失した小天守は、1960年(昭和35年)に再建されたが、2016年の熊本地震で瓦の落下や石垣の崩落などの被害を受け、大規模工事を経て、2021年、天守閣の復旧が完了。内部の展示も一新され、大勢の人たちが見学に訪れていた。まだ改修が終わっていない石垣などもあったが、お城の前の大銀杏と天守閣が、青空に、くっきりと映えていた。

 お昼は、上通りの岡田珈琲へ。1945年(昭和20年)創業の老舗のコーヒーがおいしい。もう25年前に亡くなった、母の姉の第一高等女学校の同級生が「ハイカラなお店を始めたのよ」と、以前、母から聞いたことがある。午後はハーブのお店や猫グッズのお店を、あちこち迷い迷い探して、ぶらぶら「さるく」(歩く)。コロナのせいか、店じまいしているところも何軒かあるようだった。

     夏目漱石旧居

 5日も快晴。お城の横の坪井川沿いに夏目漱石旧居まで歩く。以前、訪ねたことがあるが、孫にも見せたいと思って行ってみたら、地震の復旧工事のため休館中、2022年度に開館予定だとか。残念。漱石が鏡子夫人と暮らした家、漱石の五高時代の教え子、物理学者の寺田寅彦も泊まったという。また開館後に訪ねてみよう。

 満野龍太郎著『ぶらり新町・古町~城下町熊本を歩こう~』(熊本日日新聞社、2021年1月)を読む。共同通信社熊本支局長だった著者が書いた、ぶらり訪ねたお店の紹介が楽しい。

 「新町」「古町」は熊本の旧市街。熊本城外堀の坪井川の内側(北)が「新町」、外側(南)が「古町」で、江戸時代から商業の中心地として発展してきた。「新町」は侍屋敷や町家が混在し、「古町」は商人や職人の町。それぞれに「新町」気質、「古町」気質が受け継がれてきた。本に紹介されているお店は私も何軒か、行ったことがある。

 母と叔母の家の近く、「古町」の唐人町通りにある、明治から伝わる履物屋「武蔵屋」で買った下駄は、今も足に馴染んで履きやすい。同じく「古町」の五福小学校近く、細工町のバナナ熟成加工専門店「松田青果」は、1926年(大正15年)創業。奥で熟成したバナナが店先に並び、香りのいいバナナを、いつもお土産に買って帰ったものだ。もう一軒、呉服町電停前の菓舗「松陽軒」は、1910年(明治43年)創業の和菓子屋。お使いで、「肥後しおがま」と「宇治の里」を買いに行ったのを覚えている。今も、ちっとも変わらず、とってもおいしい。

 一方、「新町」の市電新町電停前「長崎次郎書店」は、1874年(明治7年)の創業。森鴎外『小倉日記』にも登場する。1924年(大正13年)、保岡勝也設計の、「緑色の瓦、茶色のタイルの和風でもなく洋風でもなく、中華風でもない、さまざまな文明の要素が入った、バランスのいい落ち着いた雰囲気」のモダンな建物が現存する。2013年、諸般の事情により、一時休業となったが、1年後、市民の声を受けてリニューアルオープンした。ああ、よかった。ここで読みたい本を何度も買ったことがある。

 「新町」と「古町」との境に昔、朝市(魚市場)があった。そこで母方の祖父が朝早く、セリをしていた。お弁当を届けにいくと、いつも無口なおじいちゃんが、早口で流暢に魚の値段をセリ上げているのを見て、びっくり。大酒飲みで遊び人だったおじいちゃんは、若い頃、お酒で身上を潰したと聞いたけれど、私が子どもの頃はガンコだけど、優しい人だった。母は祖父譲りの気性で、熊本弁でいう「もっこす」(意地っ張り)なところがあったように思う。

 子どもの頃、大阪に住んでいた私は、夏休み、母の里帰りに一カ月ほど熊本に滞在した。小学4年の頃だったか、もっと早く行きたくて先に一人で熊本まで夜行列車に乗り、十何時間の一人旅をしたことがある。当時はまだ蒸気機関車の時代。関門トンネルを通過する時、急いで窓を閉めても石炭ガラが飛び込んでくる。それが目に入って泣いていたら、4人掛けの向かいの席のおばあさんが、私の瞼を、サッとめくって、ベロッと舌で舐めてとってくれた。もう一人の網シャツを着たアンちゃんも、とっても優しくしてくれた。熊本駅に着くと、おじいちゃんが手招きして出迎えてくれてホッとしたのも、遠い昔の思い出だ。

 「古町」育ちの母は、さっぱりした気性で、子どもの頃からママゴトやお人形遊びは大嫌い。男の子とばかり遊んで、時には喧嘩をして男の子を泣かせていたらしい。スポーツ万能で、小学5年の時、走り幅跳びで九州一にもなったという。私とは大違い。

 高等女学校卒業後すぐ、一回り年上の父と見合い結婚で中国・北京へ。大陸の気候が合わず、大病を患い、私をつれて戦中に帰国。戦後、父が大阪・淡輪で開拓した農場で、搾りたての牛乳を飲み、病気も回復。私も野山を駆け回り、動物たちと遊んで、丸々と太って育った。

 温厚な父のもとで、母は一応、「良妻賢母」を務めていたけれど、自分を主張するのはずっと変わらなかったのではないかと思う。そんなエピソードは数々あれど、いつかまたの機会に。きっと今は、あちらの世で、母らしく自分を生きているのではないかと想像する私。

 短い旅も終わり。日差しの強い熊本を後に京都へ向かう。「またみんなで、お参りにくるからね」と、しばしの別れを母に告げて。