ゴーシュ晶子 プロフィール

 ボストンで不動産エージェントを自営。日本からおいでになる方が到着してからなるべく早く本来の目的に取り組めるように「ジャンプ・スタート・ボストン」と称して家の紹介だけでなく、生活立ち上げのサポートも提供している。 高校時代には交換留学生としてノース・ダコタ州に行く。大学在学中に結婚した相手はインド出身。その後何度もインドに行くうちに、目にする素晴らしい手仕事に魅了されて東京・高輪にインドのインテリア雑貨店、「スタジオ・バーラット」を開く。ボストンに移住したために8年後には閉店したが、これからは更にインドとのかかわりを深めたいと思っている。

◆NPO ボストン・日本商業会理事
 http://www.jbbboston.org/
◆The Boston Pledge は夫が立ち上げたNPO。 こちらではインドの村起こしプロジェクトに関わっている。
 https://thebostonpledge.org/



◆バングラデッシュから来たプラヴィーン

 ボストンで内科医として働いている彼女の出身は、バングラデッシュ。といってもそう単純ではない。1960年プラヴィーンは西パキスタンで生まれた。時代は戻るが、1947年。インドは英国の統治下から独立したが、その後まもなく、ヒンズー教とイスラム教に分かれて対立することになり、イスラム教徒たちは「パキスタン」という国を作る。真ん中にインドを挟む西パキスタン、東パキスタンという地形に分割して、一つの国にした。新しくできた国、パキスタン。国の政治的中心は西パキスタン側にあり、軍隊も西パキスタンにいた。プラヴィーンの父は軍医だったので、家族は西パキスタンに住んでいて、プラヴィーンはそこで生まれ、学校では、右から左に書くウルドゥー語で勉強していた。


◆1971年 東パキスタン独立戦争が勃発
 プラヴィーンの両親はともに東パキスタンの出身だったので、すでに東西パキスタンの対立が始まっていた当時、西パキスタン側からすると「敵方」で、彼らの住んでいた地域には柵が作られ、いわば「捕虜」として閉じ込められた生活を送ることになった。

 プラヴィーンは4人姉弟の一番上で12歳だった。「2年間も学校に行かなくてよくて、結構楽しかった」と彼女は言うが、今思うと、寝室が2つしかないアパートに、どこかから連れてこられた、やはり東パキスタン出身の家族が子供を2人連れて一緒に住むことになったので、そのユニットでは大人4人、子供6人が暮らしたのだった。食料もそう簡単に手に入るわけではなかったので、大人たちは裏庭で野菜を育てたりして結構大変だったはずだとも言っていた。

 その2年後、捕虜の交換、ということで、プラヴィーンの家族はその後、パキスタンから独立したバングラデッシュに戻ったのだが、政治の中心がある西パキスタンが、軍隊も持たない同じ国の一部、東パキスタン地域に爆弾を落とし、兵士を送り服従させようとする戦いであったので、それはひどいものだったという。その時はインドの力も借りて、女たちも銃を手にして戦った。そして、バングラデッシュは1971年に独立。そんな歴史があるから国会での女性議席の数が20.9%という数値に表れている、とプラヴィーンは言う。(2021年世界銀行のデータによると女性議席の数は、インド14.5%、日本9.7%, イラン 5.6%)

 プラヴィーンが家族と帰ったバングラデッシュの町ダッカ。かつてパキスタンだった時も中央政府から軽視されていた町はそもそも整備されていなかった上に、戦争で壊されていた。 そんなところで、彼女は敵側の言葉、ウルドゥーを話すことを隠して再び学校に通い始めた。 大急ぎでベンガル語で勉強できるように学ばなくてはいけなかったが、彼女の母が、音楽の先生を家に呼び、ベンガル語の歌を学ばせることで、楽しく、早く、ほかの皆との勉強に追いつけるようになったという。

◆自力で医者になるためには
 小さいころから医者である父を見て育った長女のプラヴィーンは、将来は「医者になる」ことに少しも疑いを持っていなかった。バングラデシュの医学部で6年勉強して医者の資格を取ったが、医者のポジションを得るためには縁故をたどる、というのが通常の流れだった。しかし、それはプラヴィーンの望むところではなかった。その時に結婚した相手も同様に医師で、同じ価値観を持っていた。縁故関係に頼らず医者になる方法といえば、海外、つまり将来は米国で医師として働くという目的を持っていた。

 そこで、ふたりはその資金を貯めるためにサウジアラビアで仕事をすることにした。同じ医学部を卒業した同級生たちの中には、通常の流れに乗って、縁故関係で医者になった人たちも多かった。しかし、優秀だった友人の中には親の意向で結婚をしなくてはならず、医学の道をあきらめた人もいたという。やはりその時は、そしてまだ今も、女は家に入るべきもの、という考えが優勢なようだ。

◆サウジアラビアで医者として働いた後、米国へ
 サウジアラビアで内科医として働いたが、患者の診療をする時に「なぜそうなったのか」などを聞く必要があるが、話を聞きながら女性の置かれている弱い立場をいやというほど見ることになったという。患者の中にはバングラデッシュから出稼ぎに来ていた女性たちも多くいた。彼女たちは身体的、精神的にひどい痛手を負っていた。医師の立場ではその原因を追究して改善することまではかなわない苦しい立場だったという。この状況を改善するためには、なんといってもバングラデッシュの国力を高めることが必要なのだ。

 2年後、ある程度の資金を作ることができた二人は、1991年にアメリカに渡った。ファリバの時と同様、プラヴィーンとその夫はすでに医師であったのだが、米国では米国のライセンスを取る必要があるのだ。そのために再び勉強をし直し、試験に合格して、インターンをする必要があった。長い道のりなのだ。

 バングラデシュでの医学教育はすべて英語で行われているので、言葉の上での問題はなかった。ただ、すぐに医学部の大学院に行けたのは夫の方だった。というのも、その時二人にはすでに娘が生まれていた。そして2人目の娘も生まれたので7年の間、プラヴィーンは、母、主婦の暮らしを送る。が、その間も自分で勉強を続けて米国で医者になる強い意志に変りはなかった。その後、プラヴィーンは見事にMBBS:内科学学士および外科学学士を取得し、活躍している。

◆娘たちの手本に 
 娘たち二人も母同様 医者になった。それは、目の前に良いお手本がいたからに他ならないと思う。一緒にサウジアラビアに渡った夫とはその後、離婚することになったが、プラヴィーンはボストンで再婚した。その相手の娘も医療関係の道にはいたものの、医者ではなかった。彼女も、少々遅いスタートだったが、プラヴィーンを見て医学部に進み、つい最近「医者」としてのディプロマをとったところだ。

 Covid-19の緊張の時は、家族6人のうちプラヴィーンを含め医者である4人は常に「感染」の危険にさらされていた。感染してしまった娘もいたという。私が彼女から話を聞くために会ったときには、「とにかく休暇が欲しかったからイタリアに行っていたの」そして、「今は夫の親戚が総勢14人で家に泊まりに来ているからお料理にてんてこ舞いだったの」と。娘たちがこのしなやかなエネルギーに導かれて医者の道に入っていったのが分かった。

◆プラヴィーンからのメッセージ:若いバングラディッシュの女性たちへ、世界の女性たちへ 
 お金が目的であるなら医者になることは勧めないけれど、人を助けたい、と強く思うなら医者になるのは一つの良い選択肢ね。まずは自分をよく知ること。そして、なんでもよいから自分がしたいことを決めて、やめないこと。 あきらめないこと。必ず願った通りになるから。


《インタビューを終えて》
 プラヴィーンの場合も、前回のファリバ同様、米国に来ることになった大きな理由の一つは、母国でのクーデターや戦争での政権交代がある。二人の父親はどちらも「前政権」で軍医というポジションを持っていた。故に、そのトップが変わると同時に「官軍」から外されてしまったということだ。そこから子供たちは、自力で道を開いていかざるを得なかったのだ。日本の私の両親は戦争の経験があったが、私たち子供たちは、そんなことは想像をすることもなく、のんきに生きてきたのだが、彼女たちにとっては「ついこの間」の現実だったのだ。

次回、「インドから来たシュープリア」に続く。
*その1「イランから来たファリバ」はこちら:https://wan.or.jp/article/show/10262#gsc.tab=0

*ゴーシュ晶子さんの他の記事はこちら:https://wan.or.jp/article/show/10069#gsc.tab=0)