ゴーシュ晶子 プロフィール

 ボストンで不動産エージェントを自営。日本からおいでになる方が到着してからなるべく早く本来の目的に取り組めるように「ジャンプ・スタート・ボストン」と称して家の紹介だけでなく、生活立ち上げのサポートも提供している。 高校時代には交換留学生としてノース・ダコタ州に行く。大学在学中に結婚した相手はインド出身。その後何度もインドに行くうちに、目にする素晴らしい手仕事に魅了されて東京・高輪にインドのインテリア雑貨店、「スタジオ・バーラット」を開く。ボストンに移住したために8年後には閉店したが、これからは更にインドとのかかわりを深めたいと思っている。

◆NPO ボストン・日本商業会理事
 http://www.jbbboston.org/
◆The Boston Pledge は夫が立ち上げたNPO。 こちらではインドの村起こしプロジェクトに関わっている。
 https://thebostonpledge.org/


◆インドから来たシュープリア
 短く、自己紹介をするとしたらどのように言いますか? と彼女に質問した。すると、「まずは母で、妻で、娘で、おばあちゃんっていうところかしら。なんといっても家族が大事ね」と始めたが、実は長い肩書を持つ人なのだ。

 インド、西ベンガル州コルカタで3人姉妹の真ん中に生まれた。親からはずっと、自己を確立させて経済的に自立できるように、と言われて育った。その頃の親たちは、「良いお嫁さんになり、その家に仕えるように」という方が普通だった、とシュープリアは言う。
 カソリックの女子高に通ったが、そこで先生からは「若いうちの脳はどんな風にも形作れるのよ、なんでもできるのよ」と言われたという。勉強好きな彼女はなんのことなくコルカタでは一番難しい「プレジデンシーカレッジ」に入学。数学を専攻した。

 インドでは、紀元前3世紀に学問所であったナーランダ僧院が設立されたが、西洋式の大学として最初にできたのがこのプレジデンシー大学。1817年に設立された。1966年、数学科のクラスには20人の学生がおり、そのうち女子は4人、男子は16人だったが、理数系の学問においては、今も男女の割合はそれほど変わっていないそうだ。学問を重んじた家で同じように育った彼女の姉は化学を専攻。妹は歴史を専攻して、カルカッタにあるユダヤ人学校の教師になったという。

 
 その後、とにかく勉強が面白く、博士課程に進む彼女を止めるものは何もなかった。彼女はデリー経済大学へ進んだ。数学が密接につながる経済学を専攻した。そこではアマルティア・セン教授の授業も受けたが、セン教授は後にノーベル経済学所を受賞された方だ。

◆結婚するとともに、大きく広がっていった道
 PHDを終了すると同時に見合い結婚。相手は同じコルカタ出身だったが、ロンドンで学業を終え、西ベンガル州に仕事のために帰国して来たシャンティだった。インドではまだ見合い結婚で結ばれることは珍しくない。シュープリアは当初はシャンティの勤務地にある高校で教鞭をとり始めた。その学校では唯一の女性教員だったという。

 ところが、間もなくボストンにあるハーバード大学から博士研究員として来てほしい、と声がかかった。彼女の研究分野の「資源・環境・そして、それを最大限に生かすための労働環境と健康管理」に関する研究室だったので、即決だった。夫、シャンティは、妻のために会社を辞め、新しい地、ボストンで彼は仕事を探さなければならないことだったが快く受け入れた。自分の立場よりも妻の希望を優先させることができる夫は、インドでもどこでもそう多くはないだろうと私は思う。ハーバードの研究室で、シュープリアは唯一の女性だった。

◆育児のハードルは高かった
 これまで、学業に関してはスイスイとこなしてきたシュープリアだったが、ボストンに来て翌年に生まれた娘がブレーキをかけた。シュープリアの母からは、学業だけではなく、主婦としても仕事もおろそかにしてはいけないといわれてきたが、現実は厳しかった。

 ボストンでの新しい生活、研究室、そして泣き止まない赤ん坊。シュープリアは娘を連れてコルカタに帰った。シャンティはボストンで家を守っていた。子育ては、計算式や、理論では解けない。9か月後に自分をリセットして帰ってきたシュープリアをハーバードの研究室は扉を開けて待っていた。二人の間にはその後息子も生まれたので、4人家族になった。

 次に移ったのはMIT(マサチューセッツ 工科大学)のリサーチアシスタントのポジション。今までと同じく、ここでも女性は彼女だけだった。そして、その後、マサチューセッツ州立大学の教授になった。彼女がこれまで発表した学術論文は600にも及ぶという。その分野は、時がたつにつれて大きく変わっていく分野なので、常にアンテナを張っている必要があったが、ここまで来るのには夫、シャンティの理解と協力なくしては到底できなかったことだ、という。

◆2017年に退職
 常に走っていた生活に終止符を打ち、今は、ボストンの家と、海辺にある家、そしてインドの3か所に順番に住んでいる。スピリチャルな生活をすることを心掛けていて、瞑想、ヨガを欠かさない。ボランティアで、若い学生たちに「自己実現」に関しての話をシェアしている。

 最近の楽しみは、インドの詩人、ラビンドラナート・タゴールの歌を習って歌うことだそうだ。もし、ボストンに来ていなかったらどういう人生だっただろうか? と聞いてみた。シュープリアは、「私にとっては、自分の分野を追いかけてきたら、ボストンに来たわけだったけれど、インドにいたとしても何も劣らない人生が送れていたと思う」と言う。彼女の分野では収入面での男女の格差はなく、女性であることで不当な扱いを受けたこともない、という。ぶれない自分を持つ人の言葉だ。インドではまだ識字率でも遅れているけれど、シュープリア達は、自分たちにできるサポート活動をしているそうだ。

◆シュープリアからのメッセージ:インドの若い女性たちへ、世界の女性たちへ
 なんと言っても、できる限りの教育を受けること。そして、経済的にも自立できる収入を得ること。すると自分が運転席に座る人生が開けてくる。
 
《インタビューを終えて》
 これまで、イラン、バングラデッシュ、そして、インドの友人たちの話を聞いてきたが、3人からのメッセージで共通しているのは、「何としても、良い教育を受けること、勉強すること」。そして、彼女たちはそこで良い先生に出会っている。また、3人とも自分で自分の道を決めてきている。それは、「なんとなく波に乗ってきたら、まあまあの人生になった」という気楽な社会環境にはいなかったということもあるだろう。内2人は、戦争で人生が変わった。だからこそ、力強い。私は、改めて脱帽する。

*その1「イランから来たファリバ」はこちら:https://wan.or.jp/article/show/10262#gsc.tab=0
*その2「バングラデッシュから来たプラヴィーン」はこちら:https://wan.or.jp/article/show/10263#gsc.tab=0


*ゴーシュ晶子さんの他の記事はこちら:https://wan.or.jp/article/show/10069#gsc.tab=0)