渡邊哲子(わたなべさとこ)プロフィール
兵庫県神戸市出身。南カリフォルニア大学(USC)にてソーシャルワーク大学院修士号を取得。2010年米国ニューイングランド地方6州に住む日本人と日系人のための社会福祉の非営利団体「JB Line, Inc.」を設立。日英語のサポートライン、ケースマネジメント、シニアサポート、離婚・親権・ハーグ条約、アウトリーチなどの支援を通して、さまざまな問題で悩む日本人・日系人のための相談業務に携わる。約100名のボランティアの方、スタッフや理事の協力とともに、困っている人がいれば共に乗り越えられるよう取り組んでいる。
団体は2018年外務大臣賞、2022年Thayer Awardを受賞。マサチューセッツ州公認ソーシャルワーカー。またJB Lineと別にアメリカの悩む方々のためメンタルヘルスのセラピストとしても従事。ニューヨークを拠点とする「邦人医療ネットワーク(JAMSNET)」理事。
◆JB Line, Inc.:https://www.jbline.org
◆邦人医療ネットワーク(JAMSNET):https://jamsnet.org
WANの皆さま、再びこんにちは。また寄稿をさせていただく機会を頂き有難うございます。
先回、JB Lineの紹介をしましたが(https://wan.or.jp/article/show/10125#gsc.tab=0)、それに対して「法人が大きくなり、負っておられる責任も大きくなり、どうやってやりくりして来られたのか、そんなこともお聞きしたいと思いました。」とのコメントを頂きました。ただ猪突猛進なだけの私ですが、ここまで多くの人に助けられたと思います。今回のボストン便りではそんなお話をさせて頂きます。
◆大学院を卒業できたのは母のおかげ
南カリフォルニア大学(USC)ソーシャルワーク大学院に入学したとき、私は37才、娘が11か月。さあいよいよ入学式、という日に娘が高熱を出し欠席。入学式に休むなんて日本人としてあり得ない、と私にとっては不安と焦りの嵐の中の船出でした。
それからが大変です。毎朝6時前に家を出て朝の渋滞で15分の距離が1時間かかりやっと到着。USCの保育所に娘を預け、8時からの授業かインターンシップ先のUCLAサンタモニカ病院までさらに車を一時間走らせます。一日が終わると保育園が閉まるぎりぎりの時間に娘を迎えて家に戻り、家族で食事、お風呂、そして娘を寝かせて夜中に宿題やペーパーを書く毎日。娘に絵本を読もうとすると一瞬で寝落ちするので読み聞かせは夫の担当でした。毎日寝ていたのは2-3時間、ベッドに寝ると起きれなくなるので、疲れて集中できなくなると固い廊下で細切れに寝ていました。
テストシーズンにはさすがにどうしようもなくなり、いつも母が神戸から手伝いに来てくれました。当時65才ころだった母は隔月に1週間くらいずつ通ってくれたでしょうか。買い物から掃除、娘と遊ぶなど、何でもしてくれました。母自体も色々な活動をしていたので日程をやりくりして渡米するだけでも大変だったと思います。支えてくれた母のおかげで卒業できました。夫と娘も本当に大変だったと思います。
当時の私は高い志があったわけでもなく、とにかくやり始めてしまったので、毎日を生き抜くことに必死。この「やり始めてしまったので」というのが私の人生の中で多いので、私の周囲は今も?はらはらしていると思います。
◆ソーシャルワークの基礎を教えてくれた上司たち
アメリカのオフィスで様々な上司と働き、多くを学びました。インターンシップ先では初日に4つ程度、「このようなことをやってみたら?」というアドバイスをもらったので一晩で膨らまして30くらいにして提案すると、「こんな大学院生は来たことがない」と大変喜ばれたくさんの違う経験をさせてもらいました。その一方で、「アメリカ人のシニアにあなたの英語のアクセントはわからないから電話は取らなくてよい」と言われがっかりもしました。
また色々な状況を見てバランスの良い「落としどころ」を探してしまう私に対し、アメリカ人の上司たちは徹底してクライアントの人生がよくなることに集中していました。彼らには「これくらいでよい」というものはなく、クライアントの問題が解決しない時は相手の側に立って机を叩いて「あなたの考えには納得できない」と言われることもありました。とにかくできることは何でもする、そうした姿勢を学びました。
そしてWork-Lifeバランスを教えてくれたのもこうした上司たちです。
ほとんどの上司は家ではお母さんです。子どもが病気になった時、家族に何かあった時は、仕事を誰かに頼んで迷うことなく家族の元に帰ります。
「子どもが熱を出したので帰ります。」という一声を出すのがどうしてアメリカではこんなに楽なのでしょう?「今日は子供の発表会なので」ということさえ、全く躊躇することなく言えます。すると他のオフィスから"Don’t worry.Enjoy!"と明るい声が返ってきます。
「働く時は真剣だが無理はしない」「家族が何よりも大事」。このバランスは、周りに“合わせて”頑張らなければならない日本人の私を、周りと”調整しながら“協働で頑張るアメリカの私へと変えてくれました。
◆Multi―disciplinary・チームワークでの働き方
こうしたことを可能にするのが「協働」です。どこでもすぐにチームで支えあうことができるというのでしょうか。組織を越えて様々な職種、メンバーがさっと即席チームを作るMulti-disciplinaryな働き方もとても一般的です。まとめ役もあっという間に決まります。クライアントの必要なことに対して、自分の組織のできること、できないことをまずは表明し、その中で誰が何をするかが決まります。
誰かが一人で背負ってすべてをするのではなく、できない時は皆で支えあうという緩やかな協力体制が完成します。このおかげで、たくさんのクライアントの支援を同時進行でしていても、また家族の用事があっても、自分の時間を自分なりに割り振りながら仕事をすることができます。大学院でもグループワークがどのクラスでもあり、貢献しない学生が一人でもいると大変なことになるので好きではなかったのですが、グループワークはアメリカの職場の隅々に生きているのかもしれません。
◆何よりも私を育ててくれたのはクライアント
人間に潜在する底力、明るさ、悲しさ、そこから感じるその人にしかない人生の美しさ、そうしたものを一つ一つ私に見せて教えてくれたのは、これまで出会ってきたクライアントの方達です。年齢、性別、人種、特性などの違いを越えて人間の普遍的なものと、その人らしさ、どんなに大変なことがあっても人は誰かと助け合うことで越えていけることを教えてくれました。
アメリカの事務所では、離職率が高く誰かがいなくなる度にスタッフの抱えるケースの数を平均化するため、担当のクライアントを一方的に変えられました。そのために「せっかく信頼していたのに」「やっと信じられる人に担当してもらえたのに」と諦めの顔をされることも多くありました。この時の経験からJB Lineを始めた時には、ファンディングやスタッフの数などこちらの都合で支援が変わるようなことはしないと決めました。
◆今の自分
11か月だった娘も今や大学4年生、来年の秋からは彼女自身が大学院に進みます。仕事に集中できる「時間」は増えましたが、集中できる「力」が減りました。さすがに7時間は寝ないと持ちません。朝6時前に起きて夜11時前に寝るまで毎日があっという間に過ぎます。いくつもの仕事とたくさんの相談者と、オフィスの維持と、動き回っているけれども効率がよくない自分にがっかりすることももしばしば。そんなときの助けはやはり「仲間」です。
以前はどうやって同じ方向に向いていけるかということを考えていましたが、今はそれぞれ違ってよい、違う人たちがそれぞれの力を出せばよい、という考え方に変わりました。若い人も、年を取った人もスタッフも相談者も皆がそれぞれに力を合わせて、やれることをやっていく。そうした違いを認めながら各自の個性を生かしていく、そこに1人では生み出せない大きな力が生まれることを毎日感謝の中に感じています。
こうしたボストンでの日々を振り返る機会をくださいました河野貴代美さんとWANの皆様に心からの感謝を込めて。
渡邊哲子さんの他の記事はこちら:https://wan.or.jp/article/show/10125#gsc.tab=0