
韓国映画「オマージュ」を見てきました。
女性監督シン・スウォン作の映画で、2021年の東京国際映画祭コンペ部門に選ばれた作品です。シン監督自身をオーバーラップさせた、49歳の女性映画監督ジワンの日常と監督生活を中心に映画は展開していきます。ジワンは監督としてやっと3作の映画を作りましたが、興行成績も振るわず、スポンサーからも見放されています。息子からは「ママの映画はつまらない」と言われ、事務所の代表からは工事のために明け渡しを告げられます。
そんなとき、後輩から報酬はよくないがやりがいのある仕事があると紹介されて、映画資料室の若い男性と会います。その男性から、1960年代に活躍した女性監督ホン・ジェウォンが残した映画「女判事」を映画資料室で上映したいが、途中から音が入っていないため、音入れをしてほしいと頼まれます。ここから、ジワンのホン監督と彼女の作った映画を再発見する旅が始まります。
ホン監督の娘に会って、母親が映画界で思うように仕事ができず苦しんでいたという話をきき、母が仲良しの女性2人と一緒に撮った写真を見せられます。その写真の裏には「三羽烏 明洞茶房」と書かれていました。その茶房の名前をもとに明洞の喫茶店を探し当てます。そこの年老いた男性から、その写真の1人が、ホン監督の映画の編集をしていたイ・オッキという女性であることがわかります。
ジワンは映画資料室の男性と、忠清道の小さな村に1人で住むイ・オッキを訪ねます。ホン監督の娘から借りてきたと言って3人の女性の写った写真を見せます。イ・オッキはまず「え? ホン監督に子どもがいたの?」と驚きます。そして、「これが私、真ん中がホン監督、その右がもう1人の女性監督パク・ナモク」と、その写真の人物を教えてくれます。一緒に映画の仕事をしていていつも会っていた仲良しの三羽烏なのに、子どもがいることは言っていなかった……。当時の女性は、家族のことなど言ったら仕事にありつけなかった、そういう事実をさらりと伝えます。
イ・オッキから当時の映画界の生々しい記憶がよみがえります。「昔は編集室に入ったら、『女は縁起が悪い』と塩をまかれた」と、当時の映画社会の女性たちの待遇を知らされます。
こうして、50年を隔てた先輩女性たちと現在の女性たちとの人生が重なってきます。
ホン監督の『女判事』が途中でカットされていることもわかってきます。イ・オッキは「当時は検閲があったからね、女がタバコを吸っているシーンなどあったら切られたね。女のすることは簡単に切られたよ」と、カットの理由を検閲と結びつけます。
ソウルへ戻る車の中で、映画資料室の若い男性は、女性が子どものいることを明らかにできなかった時代があったことを知った驚きをジワンに告げます。ジワンは、「わたしも、映画会社の代表に『おばさんがなぜ映画を撮るの? 家事でもしてればいいのに。子どもまでいるのに』と言われた」と言います。男性は「そんなの蹴っ飛ばしてやればよかったのに」と、憤慨します。
更年期の障害で自身の体調も優れないジワンですが、そんな中を60年代に「女判事」を上映した映画館を訪ねあてます。紛失していたフイルムも探し出して、ジワンの仕事はおわります。ホン監督の撮った映画は、韓国最初の女性判事ジンスクの判事としての社会的役割と家庭での役割の両立の悩みを描いた作品でした。険しい道を切り開く先覚女性としてジンスクとホン監督は重なり、映画製作の少数派としてホン監督とジワンとが同調し合っています。イオッキが「昔映画を作っていたころはとても苦しかった。女性が生き残るのは大変だった、あなたは必ず最後まで生き残って映画を作ってほしい」とジワンの手を握るシーンがあります。先輩女性たちの思いを受け取ったジワンの表情が輝きます。トレンチコートに帽子の中年の女性が、タバコを吸いながら海辺を歩くセピア色のシーンで映画は終わります。
女性が生き残るのが苦しかった時代はつい数十年前のことでした。私の実際に出くわした例です。1995年9月初めの北京女性会議で、私たちは中国の女文字、日本のひらがな、韓国のハングルというアジアの文字の女性性とその文化について、ワークショップ開催を計画しました。韓国の文字については、韓国の文字史に詳しいR教授を紹介していただき、中国の清華大学のZ教授が中国女文字を、遠藤がひらがなについてと、3人で報告することにして、1995年の年初から準備を始めていました。当時は手紙とFAXのやり取りでしたが、連絡しながら9月の大会に備えていました。
その6月末です。ソウルのR先生から手紙がきました。「夫の母親が脳梗塞で倒れた。自分はその介護に当たらなくてはいけない。そのため、9月の会には参加できない」というものでした。そんなこと急に言われても困る!と非常に当惑しました。「なんとか介護は代わりの人にお願いして、当日の発表だけでも参加してもらえないか」と頼みましたが、「発表の準備も介護でできなくなった、介護を代わってくれる人はいない」というものでした。
大学の教授のポストをもつ著名な研究者でも、夫の母の介護が優先するのか!と大変なショックでした。パニックでした。でも、「できない」の一点張りにはどうすることもできず、諦めました。不幸中の幸いでしたが、韓国から留学していた院生がピンチヒッターを引き受けてくれて、なんとかその場を切り抜けました。
いま、韓国の女性はシン監督のような力のある女性監督が、先輩女性へのオマージュを作れる時代を迎えています。90年代の例を知るものとして、現在の韓国の女性の活躍ぶりはまぶしいばかりです。2018年の#MeToo運動をきっかけに女性監督が次々とデビューし、女性を描く作品も増えてきました。シン監督も「以前に比べると確実に映画界で女性が働く環境がよくなった」と言っています。韓国女性の活躍は映画の世界だけではないでしょう。実業界でも、司法分野でも、芸術分野でも、初代の開拓者たちにオマージュを捧げる世代が育ってきているのでしょう。
日本では、映画界では50年代に田中絹代監督が生まれて、望月優子、左幸子など活躍した監督もいました。そのころは先を進んでいた日本ですが、今の映画界で、多額なお金をつぎこんで映画を作ることのできる女性監督は続いているでしょうか。女性の被る理不尽な差別を「そんなの蹴っ飛ばしてやればよかったのに」と日本の男性も言うでしょうか。
「オマージュ」の中で、食事づくりを催促する夫に家庭内別居宣言をしたり、資料を求めてどこまでも追及していくジワンのまっすぐさとバイタリティーを見習いたいと、今はつくづく思います。
(参照:パンフレット「Hommage」編集・発行アルバトロス・フイルム)
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