佐藤真実(さとう まなみ)プロフィール

2016年に留学のために渡米し、2022年にボストンに引っ越しました。現在はリモートワークをしながら、2歳の子供と夫と暮らしています。
大学の先輩である細田満和子さんが、ボストン日本女性の会にお誘いくださり、日本女性の会が企画した河野貴代美さんの講演会に参加したことで、この「ボストン便り」執筆の機会をいただきました。
浮草のように流されながら、いろんな経験をしてきましたが、アメリカに来て苦労した面、恥ずかしくてあまり人に話してこなかったことを、主に金銭面や職探しの観点から書こうと思います。



◆ロンドンからフィラデルフィアへ
私は2016年に渡米しました。ペンシルバニア州フィラデルフィアにある大学でMBA(経営学修士)を取得するためです。
MBAを考え始めた当時はまだ独身で、長年の夢だった海外赴任が実現し、ロンドンで4年ほど駐在員として働いていました。様々な人種・価値観の同僚に囲まれて仕事をする中で、多様な人材をマネジメントする難しさを肌で感じたため、自分が管理職になる前に、学問として経営やリーダーシップをしっかり学びたいと思うようになりました。

日常生活の中だけでも、大変なことはたくさんあるんだから、せめて仕事場くらいは、できるだけ皆が気持ちよく働けるようにしたい。そのためにはどのような努力をすればいいのかを、ビジネススクールの本場であるアメリカで学び、今後のキャリアに活かしたいと思っていました。また、アメリカのドラマに出てくるような広々したキャンパスで学生生活を送ってみたい!というミーハー心もありました。

当時、日本人がアメリカでMBAを目指す場合、勤務先が留学費用等を負担する会社派遣というかたちで留学することが主流でした。しかし私は社内試験で不合格となり、私費で留学することにしました。日本の奨学金の多くは日本在住者であることが応募条件だったので、ロンドン在住だった私が応募できる奨学金はほとんどなく、結局、全て自腹で親からの支援も受けて留学することになりました。

◆かかりすぎるお金とパサパサになった髪
アメリカのMBAはおそろしく学費が高いです。高級車が何台か買える値段です。加えて生活費も当然自己負担です。日本では実家に住み、海外赴任中は会社が住居費を負担してくれていたので、恥ずかしながら自分で家賃を払うという経験をしたことがありませんでした。そのため、毎月かなりの金額が出て行くことに身を切られるような思いでした。

フィラデルフィアの街並み

当時借りていた部屋はワンルームで月1300ドルくらいだったので、東京に比べてもフィラデルフィアの家賃は高いです。(その後引っ越したマンハッタンの家賃はその倍以上で、呆然とすることになるのですが。。)

できるだけ節約しようと思い、その心がけは良かったのですが、極端に走ってしまい、シャンプーは固形石鹸で代用し、枕もバスタオルを敷いて凌ぐというエキストリームな生活を送っていました。おかげで髪に潤いがなくなりました。

学生生活も最初は大変でした。グループ討論ではネイティブの同級生に押されて何も発言できませんでした。唯一できることといえば、授業で使うプリントをいの一番に取りに行ってチームメイトに配るくらい。

ロンドンで働いていた時、英語ネイティブの同僚とも普通に働けていたのは、あちらが駐在員に対して気を遣ってくれていたのだと痛感しました。



 フィラデルフィアの野球チーム、フィリーズの試合観戦。        マイアミ・マーリンズにいたイチローを見ることができました!



数ヶ月後には疲れが噴出したのか、40度の高熱が出て2週間ほど寝込みました。前述の通り枕がなかったので首が痛くなり、さすがに買うことにしました。当然ながら、なぜもっと早く買わなかったんだろう?と思いました。

このようなドタバタの2年間をなんとか生き延び、フィラデルフィアで現在の夫と出会ったこともあり、卒業後はアメリカで働いてみたいと思うようになりました。



◆すべりこみで就職、そして失職
就活はほぼ全滅。数百社に履歴書を送ったにもかかわらず、面接に呼ばれることも稀でした(心労のせいか帯状疱疹を発症しました)。非アメリカ人として、就労ビザのスポンサーを前提に職探しをすることの難しさを痛感しました。が、ようやく内定をもらえ、ビザが切れるぎりぎりのタイミングから働き始めました。

しかしながら、その就労ビザを更新しなければならない1年後、勤め先が寛容にスポンサーしてくれたにもかかわらず、更新申請が却下されてしまいました。不許可通知を受け取ったその日から、もう働くことはできなくなり、慌てて引継ぎだけ済ませたのですが、1年間お世話になった会社を去る際には、申し訳なさと悔しさで割り切れない気持ちでした。

当時の私にとって、仕事をしているというステータスはとても大事なものだったのです。
共働きの両親に育てられたことと、母親に口すっぱく「仕事をし続けなさい」と言われてきたこともあると思います。

また、これまでにささやかながらも自分が成し遂げてきたこと(20代での海外赴任や、私費での海外留学等)に誇りをもっていましたので、ビザが不許可になったことで、自分の今までの努力、功績をすべて否定されたように感じました。「アメリカではあなたは要りません」とはねつけられたと感じました。

しばらくは気持ちの晴れない日々を過ごしました。毎朝9時になると、会社の同僚はもう働き始めているな、と時計を見ながら思いました。世の人は働いているのに、私は何もしていない。鬱々としていました。

今思い返せば、働いている人も、いない人も、いろんな人がいての社会なんだし、仕事がない時期は自由時間を満喫すればよかったなと思えるのですが、当時はなかなかそうは考えられませんでした。せっかく時間があるんだからとフルマラソンにエントリーしたものの、練習中に怪我をして出場さえできなかったり・・。今思えば「おい、ちょっと落ち着け」と言いたくなります。社会的な肩書きがあることを当然として生きてきたので、それが剥がされたとき、何者でもない自分がとても恥ずかしかったし不安でした。

◆働いていてもいなくても
その後、幸いにも子供に恵まれたため、しばらくは何もせずに過ごしていました。とはいえ、コロナ真っ盛りの中での妊娠判明、人生で一番体調が悪かったつわり期間(1ヶ月ほぼ寝たきりでした)、まわりにすぐ頼れる親戚や知人がほとんどいない中での妊娠生活は、不安も困難も多かったです。この期間は相当メンタルがやられていたなと思います。無事出産したあとも、息子がかわいくてしょうがない反面、新米親として日々悪戦苦闘していました。

しかし、仕事を一旦離れたこと、また親として今までとは全く違ったタスクをこなすことで、「仕事をしていようがしていまいが、私は日々よくやっているんだ」と思えるようになりました。そう思えるようになるまでには長い時間がかかりました。今は、社会的な肩書がなくても、人の助けがないと生きられなくても、あまり気にしないようになりました。

緑の多いボストンエリア


コロナ流行や妊娠・出産を経験し、3年間の無職期間を経て、昨年からボストン近郊でフルタイムの仕事に復帰しました。 ボストンには夫の転職に伴い引っ越してきたのですが、生活が落ち着いてきた頃に就活を始め、幸い現在のリモートの仕事に就くことができました。

アメリカでは、職種にも依りますが、リモートワークが定着しています。完全なリモートワークは減ってきているようですが、私のチームも全員がハイブリッドで働いています。管理職になるとより頻繁にオフィスで働いている印象です。

オフィスに通う良さもあると思っているため、どのような勤務体系の仕事を選ぶか最後まで悩んだのですが、結果的には現在の仕事を選んで正解だったと思います。通勤の負担がない上、保育園から急な呼び出しがあっても対応できますし、手が空いた時に家事ができるのも大きな利点です。職場で同僚と顔を合わせて働くのも楽しいだろうなと思いますが、子供が小さい現在は、在宅で働けることをとても有り難く感じています。

アメリカでの子育ては、これまでとは違った大変さがあります。例えば子供の病気や予防接種については英語で資料を読んで不明点を質問しないといけません。また、私の子供が通う託児所の担任の先生はスペイン語しかしゃべらないため、大学の第二外国語で少しだけ習ったスペイン語を思い出すべく努力しています。

小さい子供を持ちながら仕事をすることはどこにいても大変だと思いますが、ありがたいことに、仕事や家族、地域の方々などに救われています。一仕事片付けた後は達成感がありますし、仕事がうまくいかなかった日も、家族と団欒の時間を過ごすことで、くよくよしすぎず明日も頑張るか、と思えます。また、地域の教会では、日本語話者が子供連れで参加できる集まりを毎週企画してくれています。そこで出会った方々には、雑談に付き合ってもらったり、ベビーシッターをお願いしたりと、とても助けられています。

アメリカでの就職・失職はハードな経験でしたが、その時期を通過したことで、自分がしがみついていた「仕事至上主義」という不遜な価値観に気付けましたし、仕事が全てではないんだということに気付けました。当然ながら、仕事の有無で人を判断するのは無意味なことだし、仕事以外にも価値のあることはたくさんあって、仕事はそのうちのひとつにすぎないのです。年内には第二子が生まれる予定です。これまで以上に「待ったなし」の環境ですが、肩の力を抜いて、これまでもなんとかなったんだからなんとかなるだろう、という気持ちでやっていきたいと思います。