京都・堺町画廊で「SURE書店」が開かれていた。編集グループ「SURE」出版の本が並ぶ中から数冊、買い求める。藤原辰史著『これからの日本で生きる経験』(2023年3月)と山田稔・黒川創編『多田道太郎 文学と風俗研究のあいだ』(2023年12月)と鶴見俊輔著『もうろく帖』(2010年6月)などなど。
藤原辰史は、1976年生まれ、団塊ジュニアの気鋭の若手研究者。農業史、食の思想史を軸に、実に鋭い時代分析を試みる京大人文研准教授として、よく知られている。
『これからの日本で生きる経験』の「語り」を綴った本の始めに、なぜ藤原辰史が「農」に関心をもったかが語られる。父親が農業技術者として島根から北海道の上川農業試験場へ、再び島根に戻り、農業技術者として生きたことにあるという。
57歳で亡くなった私の父もまた戦前、農業技術者だった。「農民は新しい技術をもち、もっと豊かにならないといけない」と宮崎高等農林を出てニュージーランドへ留学。「ニュージーランドは人よりも羊が多い国だよ」と子どもの頃、よく聞かされた。羊の毛を刈るのがとっても上手、大きな鋏でアッという間に羊を丸裸にしてしまう。福岡や北海道の種畜場で研修を積み、戦中、中国の北京へ渡り、中国の農業系合弁会社で「大人」(タイジン)の風格のある中国人たちと仲良く働いたという。私も北京・王府井近く、東単の胡同(フートン)で生まれた。
敗戦から2年後、父は中国の友人たちに助けられて帰国。大阪南部の淡輪で山を開墾して農場を拓く。長野の満蒙開拓団からの帰国者や在日朝鮮人の人たち、台湾で特高警察署長だった人も交えて、みんなで仲良く、牛や馬、羊や山羊、アヒルや鶏を育てていた。昼は野原を駆け回り、夜は満天の星を仰いでドラム缶のお風呂に入り、絞りたての牛の乳や山羊の乳、四斗缶に入ったバターや水飴を嘗めなめ、戦後、食べ物がなかった時代に丸々と太って育っていた私。
もう一冊、藤原辰史著『「決定版」ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』(共和国、2016年7月)を読む。大好きな出版社・共和国の大部な変形版500頁の本。もう6刷。初版は2012年5月、水声社より刊行され、第1回(2013年度)河合隼雄学芸賞受賞。30代半ばの著作だ。すごいなあ。
帯には「食と台所のファシズムを問う」「台所に立つと、ナチスは遠い過去ではない」とある。「竈からシステムキッチンへ、近代化の過程で変容する家事労働、レシピ、エネルギー」について、現地ドイツの図書館で、くまなく調べて検証した労作だ。ちょっとカオスのような難解な本だけど、読み応えがある。
ナチスは自給自足をめざし、「飢え」から「国力づくり」へと向かう。ならば「食」を中心に歴史を語ろう。それも女性たちが生きた「歴史」から出発しようと、藤原辰史は『ナチスのキッチン』を書いたのだという。
台所と食にまつわる3人の女性たちが登場する。一人はエルナ・マイヤーというユダヤ人の経済学者。在野で家事のマニュアル本を書き、家事アドバイザーとして一世を風靡するが、ナチスに追われてイギリス統治下のイスラエルに逃避する。もう一人はヒルデガルト・マルギス。彼女もユダヤ系で、ヨーロッパで初めて消費者アドバイスセンターをつくったが、反ナチ闘争に身を投じて獄中で亡くなる。3人目はマルガレーテ・シュッテ=リホツキー。オーストリア初の女性建築家。「赤いウィーン」の時代、共産主義者として戦後、東ドイツで生きることを選択する。第一次世界大戦下、イギリスはドイツを経済封鎖し、兵糧攻めでドイツを飢えさせていく。その「封鎖シンドローム」「飢餓シンドローム」の実体験から「食の合理化」を目指して世界初の大量生産型システムキッチンを発明する歴史を切り拓いた女性。彼女は1934年、中国と日本を訪ねて、当時、日本に滞在していた建築家ブルーノ・タウトとともに京都を訪れている。
新版の「あとがきに代えて」に追記された「針のむしろの記」が面白い。『ナチスのキッチン』初版刊行後、研究者以外に栄養教諭、料理人、医者、建築家、作家、詩人、翻訳家、編集者、専業主婦、小学校教員、古本屋の店主、図書館司書、大学院生などから反応があったのが、うれしかったという。たとえば「残りもののアイントプフ(ごった煮料理)」のレシピを再現する料理人。熊本の高校生たちとレシピどおりに調理して試食する会をもつなど、実に楽しそうに書かれている。
『ナチスのキッチン』から10年、藤原辰史は「食」をめぐって、これからの日本を生きるキーワードは何かを考える。①アメリカのフレデリック・テイラーが唱えたテイラー主義(労働者を科学的に管理して労働効率や生産性を上げる方法)の先にある、テクノロジー時代の現在、我々はどう生きるべきか。世界はVR(仮想現実)に行き着くのかもしれない。命を奪ってまで食べることの意味に疑問を抱く若者たちもいるのだから。②歴史が為政者によって歴史修正主義を含め、どんどん書き換えられていく危うさ。③「反出生主義」、自分の出生を寿ぐことができない若い人たちが増えているという。その行先にはメタバース(VRを用いた仮想世界)が現実となる時代がやってくるのではないかと藤原辰史は予見する。
やがて「家族の限界」が始まるだろう。そこで藤原辰史は『縁食論 孤食と共食のあいだ』(ミシマ社、2020年)を書くことになったという。
『これからの日本で生きる経験』の中で藤原辰史の「語り」を聴く参加者の一人、中尾ハジメが、スペインのシェフ、ホセ・アンドレスが考え出した「ワールド・セントラル・キッチン」のことを紹介する。ワシントンDCのレストランの廃棄食材を集めて、料理人になったホームレスたちが、それを調理し、災害地で緊急にキッチンを設営するチームをつくったという。あったかい食事を運んで。「被災者はこっちに来られない、だから自分たちが行くんだ」と、あちこちに移動して、ウクライナへも出かけてゆく。これは今、世界中で最も必要とされる「食」の取り組みの一つではないだろうか。
さて、2024年2月13日、京都大学公開セミナー「人文学の死-ガザのジェノサイドと近代500年のヨーロッパの植民地主義」が開かれた。ぜひ行きたかったのだけれど、所用で叶わず、後日、長周新聞(2024年2月22日、23日、24日付)で読むことができて、ほんとにうれしい。
岡真理「ヨーロッパ問題としてのパレスチナ問題」、藤原辰史「ドイツ現代史研究の取り返しのつかない過ち-パレスチナ問題軽視の背景」、それを深めるパネルディスカッションが、駒込武の司会で行われた。
岡真理は「イスラエル国家は入植者による植民地主義的侵略によって先住民を民族浄化することにより建国されたという歴史的事実がある。1948年以来、やむことなく今日まで継続するパレスチナの民族浄化-ジェノサイドは今も続く植民地戦争である」と語る。
藤原辰史は「この問題は、ドイツ現代史研究者の一員である自分にも矛先を向けられたものでもある」と自身に問いかける。
ドイツとイスラエルは「賠償」で繋がる軍事関係にあると指摘する。1952年、イスラエルと西ドイツの間で「ルクセンブルク補償協定」が調印され、西ドイツはイスラエルに30億マルクを物資として支払う。その物資の中には「デュアルユース(軍民両用)」の軍事物資が入っていた。1965年、西ドイツとイスラエルは国交を樹立するが、それまでもドイツはイスラエルへの軍事支援を極秘に進めていたという。結果、パレスチナの人々の命を奪うことになるのだが。
それはまた日本の戦後の「朝鮮特需」やアジアへの戦後賠償の一環としてのODA(政府開発援助)とも重なるのではないかと思う。
「ナチス研究者は、ナチスと十分に向き合えていなかったのではないか。もし真剣に向き合えていれば、長年のイスラエルの民族浄化を自分たちも批判できたであろう。それはナチスの罪を相対化するものではなく、ナチスの罪がどれだけ深いかをもっと知るということだ」と藤原辰史は結ぶ。
今、向き合うべき「歴史」とは何か。パネルディスカッションで、「反ユダヤ主義はいけないと考える人たちであっても、なおレイシズムや植民地主義に向き合っているとはいえないのではないか」との声が、講師からも会場からも上がっていた。
どこまで続くぬかるみぞ。過去500年を遡るまでもなく、今なお植民地主義やレイシズムは続いている。
司会の駒込武は最後に、「真に向き合うべき「歴史」のために、今こそ植民地主義批判を核とした世界史教育の構築が、今後の人文学の「知」の役割を果たすことになるのではないか」と締め括る。
ほんとに、そう思う。「あったことをなかったことにしない」ためにも、「見えないものを可視化していく」ためにも。それが今、生きている私たちの、若者たちを含めての、これからの大切な責務だと思うから。