急かされるように、「私たちは『買われた』展」を観に出かけた。

「売春する中高生について、どんなイメージを持っていますか?」という問いに答えた大学生の様々な意見…には違和感を感じてはいた。が、展示を見ていくうち、自分の考えが表層的で甘いものだったと後悔した。状況は、予想をはるかに超えた深刻さであり、その中で懸命に生きてきた彼女たちの、これまでの激烈さを思い知った。私もまた、無知だった。

彼女たちにはそれぞれの事情があり、そこに至るにもそれぞれの状況があった…しかし、読んでいくうちに共通する「原因」「要素」があることに段々と気づいていった。

親が、「親」ではないのである。思い浮かべる「親」とは、「子を慈しみ育てる者」であり「子どもに教育を受けさせる義務を持つ者」の筈だ。しかし、彼女たちの親は、どれもこの範疇には入らない…が、それでも世間では「親」と呼ばれてしまっている人間たちなのだ。
養育の放棄、である。学校に行かせない、生きていくための食べ物すら与えていないのである。その親たちに勿論責任(の放棄)はある。しかし「子どもは社会の財産」であるなら、親の責任以上に「社会の責任」が問われるべきではないのか?一食とることさえ叶わない彼女たちを、社会は見殺しにしてきたのだ。

教育の現場で、必死の想いで自分の現状を教師に訴える。しかし、それにきちんと応えてくれた教師は一体どのくらいいるのだろう。ここには、応えてくれなかった教師の話があふれている。 彼女たちの様な生徒がいる、ということの教師への情報提供や教育訓練は、なされているのだろうか?生徒たち自身に起こり得る危険な状況の知識と、自分の身を守るためのスキルは教えられているのだろうか?そもそも、彼女たち自身が持つ様々な権利を、身体化するほどにしっかりと教えているのだろうか? 一見、問題行動(この命名自体が、思い上がった上から目線である)を取る・抱える子どもたちの後ろに拡がる状況を、どれだけ理解できているのだろう?自分の手に余ると感じたら、専門機関へ紹介する・つなげる程度の知識も、持ち合わせてはいないのだろうか?

たまたま知った保護機関や保護施設…そこの職員が、どんな対応をしてくれたのだろう。彼女たちの「これまで」を読めば、そのお粗末さ、二次被害とも呼べる対応にはらわたが煮えくりかえる。「事なかれ主義」?…「17時までしか対応できないから」という施設職員の言葉が、すべてを物語っている。誰のための施設なのか?なんのための職員なのか?

警察はそもそものはじめから、彼女たちにレッテルを貼り、色眼鏡でしか見ていないように感じた。一昔前の「不良少女」というレッテルだ。レッテルを貼って蓋を閉じてしまったその中を、彼らは決して覗こうとはしない。

そして、やっと医療機関に辿り着いた彼女たちを待っているのは「病理化」の悲惨である。鬱?統合失調症?発達障害??…なんとでも勝手に病名をつければ良い。病名をつけたその瞬間に、仕事は終わったと思うらしい。その症状を生んでいる原因を探ろうともしないし、そもそも何も理解できていない。名前を付けて病理化し、高い薬を与えることで回復・治癒に結びつくような単純な問題だと、まさか思い違いをしているわけでもないだろうに。 先進的な向精神薬をどれだけ与えても、彼女たちの症状が治まるとは到底考えられない。問題は、そんなところには無い。向精神薬は心の傷には届かないし、彼女たちの現状を変えはしない。

そして、誰よりも許せないのが「男たち」である。

行くところもなく、食べるものも無く、ふらふらとさまよう彼女たちに「男」は声を掛ける。彼女たちが置かれている状況を、男たちはうすうす感づいているのではないのか? 「どうしたの?」と猫なで声を掛け、コンビニでおにぎり一つを与え、ホテルに連れ込んでの買春。自分たちの欲望のはけ口に、底辺にいる力ない彼女たちをまんまとせしめるのである。これが犯罪でなくて、一体なんだろう(怒) 買春の男たちだけではない。うすうすこのシステムに気づいている男社会が、この買春に荷担しているのだ。彼女たちの主張はあまりに過酷な状況の中での精一杯の叫びであり、それは決して個人的なものではなく社会的なもの…彼女たちの経験は、この社会に確かに存在する「女性差別」「女性嫌悪」が絡み合い、グロテスクに肥大化した結果なのだ…と思い知った。

終わり近くに、1枚の写真がある。まとっている色鮮やかな振り袖から、手首が見える。その手首には無数のリストカットの痕とタバコの火を押しつけられた様な円形の火傷の痕も見える。二十歳まで生きられると思っていなかった自分が、心ある人々の援助で二十歳を迎え、その記念に撮ったというこの写真の前でこみ上げてくるものを、私は抑えることができなかった。

ここまで生きてきた自分を、どうぞ誇りに思って欲しい。私は、生き延びてきたあなたたちに胸一杯のエールと拍手を送りたい。 あなたたちが力を振り絞って挙げたこの声は、少しずつ、きっと何かを変えていく。(永野眞理)