上野千鶴子さんの発言をめぐって議論が続いています。WAN上にも、これまで岡野さん清水さん木村さん、そして移住連の方々のご意見が寄せられていますが、それらのどれもそれぞれに素晴らしい論点、納得できる議論を提示しておられ、とても勉強になりました。上野さんの発言が、ご本人の意図はどうあれ、結果的に排外的なメッセージとして機能する、という移住連のご指摘はとくに大切と思いました。

こうしたことを十分に踏まえた上で、なのですが、しかし、私には、この問題を考える上で重要な点がこれまでの一連の議論の中では言及されていないように感じ、本稿を書くことにしました。それは、現在の日本社会にある、限定的な少数とは言い難い、排外主義的な傾向にどう向き合っていくか、ということです。

「日本スゴイ」を連発するTV番組がしょっちゅう流れ、本屋の目立つところに中国韓国へのヘイト本が並べられ良く売れていて、何か地域で問題があると「外国人のせい」とまことしやかに語られてしまう、、、。そしてこれらは、街宣車でがなり立てたり子どもに教育勅語を暗唱させたりするようないかにも極端な連中ではない、普通に社会生活を送っておられる人々、まさに私たちの隣人の中に見られるのです。こうした、いわば、「普通の人の排外主義」が、この社会にはもうだいぶ長いこと、広がっているのではないでしょうか。さらに、なんとも腹立たしく情けないことには、国家の最高権力者がその先導をしているような状況があります。

私は、今回、上野さんの新聞記事が出て批判が始まったころ、ツイッターでこんなツイートをしました。
「上野千鶴子さんの発言が批判されてますが、世界中から排外主義と批判されてるトランプの先を行く政策を続けてる首相が高支持率を誇っているこの国を客観的にみれば~、という話でしょう。それを変えていくべきというのは正論だが、それをわざわざ上野さんに言わせたい?記者の編集が不備なのは確かだが」(2/13)。

このツイートに対し、上野さんの発言と同様、排外主義の現状肯定である、というようなご批判もいただきました。このツイートには確かに、上述したような、上野さんのような著名な方の発言のネガティブな機能という点への留意が不足していたとは思います。しかし、日本に排外主義的傾向があるから移民を受け入れることは無理である、とまで言うことと、日本社会に排外主義を支持する傾向がみられると現状を認識することは違います。この現状を認識することは、現状を肯定することではなく、むしろ、現状をしっかりと正確に認識するところからしか、それを変えていく道は始まらないのではないでしょうか。

そしてこの懸念は、トランプ大統領の登場やイギリスのEU離脱という「民意」が欧米で示されていること、そしてそれが、大方の政治家や知識人、評論家はじめ多くの「良識ある」人びとの予想を覆すかたちで起っていることからも深まります。
大統領就任後も、アメリカではトランプに対して主要メディアの批判の声は高く、コメディトークショーでもほとんど毎日トランプの政治姿勢や手法の異様さが笑いのネタを提供しています。このようにメディアやジャーナリズムでは反トランプが主流のように見えるのに、しかしそれでも世論調査によると、外国人入国制限の大統領令は支持のほうが多数派なのです。

つまりここには、リベラルな言説は、正論であり続けているものの、必ずしも力を持たない現状が出現しているわけです(念のため申しますが、ここで「正論」と言っているのは、「PC」のように揶揄的・懐疑的な意味が含まれているのとはまったく違います)。しかもリベラルは、どのような人々がトランプを支持したのかその真意をくみ取れておらず(「低学歴」の「白人貧困層」がトランプに投票した、などというのは事実に反する偏ったステレオタイプに過ぎなかったということはすでに明らかです)、それらの人々の意識や願いを救い上げるすべを今のところ見いだせていないのが現状なのではないでしょうか。

私には、日本の「普通の人の排外主義」も、その連続で捉えることができるように思えます。そして今回の議論も、欧米でリベラルが抱えている困難と似た面をはらんでいるように思うのです。
今回、上野さんを批判してあがっている議論は、すべて正論で、より多様な人々に開かれた公正な社会に向けたものとして説得力のあるものです(私自身も強く賛同します)。しかし、それは、リベラリストや、現住であれこれからであれ日本に暮らす外国人・外国籍の方には伝わる言葉であるとしても、日本社会の「普通」の排外主義者に、果たして納得してもらえるか(言葉使いや概念の難しさは別にして、そのロジックが、ということです)、まったく容易ではないように思います(でなければ、現実にこれほど排外主義が広まってはいないでしょう)。そして、私自身も含め、リベラリストたちは欧米のリベラルと同様、「普通の排外主義者」たちの真意を理解し言葉を伝える努力をじゅうぶんにしてきているか、成果をあげられているか、と自省を込めて思うのです。

ことは移民・移住労働者をめぐる問題だけではありません。生活保護受給者に対するネガティブな見方、慰安婦問題についてどんどん厳しくなっていく世論、、、、挙げればきりがないほど、排外的で非寛容な傾向がこの十年以上、続いています。
私自身について少々自虐的に言えば、この日本社会で、「正論が届かない」ことには、悲しいことながら、慣れ切っていたのかもしれないと思います。ある意味、日本だからダメ、という日本特殊論に依存していたのかもしれません。それが、欧米で今起こっている事態を見て、あらためての危機感を深めている次第です。

現政権や経済界が、「日本の活力を維持するために」と打ち出している、外国人管理政策をどうやったらまっとうなものに変えていけるのか、それには、「普通の人の排外主義」を変えることが不可欠なわけですが、どうやったら変えていけるのか、どうアプローチしたらいいのか。
今回の一連の議論は、上野さんに向けてのものだったので、とくにそこに言及されなかったのは当然かもしれませんが、これを機会に、ぜひここから議論をしていきたいと思うのです。
移住連の皆さんはじめ多くの方々が、多様な人々が働き生きる公正な社会の実現に向けた実践的な努力を続けておられること(微力ながら私もその一員であるつもりです)は良く承知していますし、一昨年のSEALDsの若者たちの目覚ましい行動、世界的にはウィメンズマーチの盛り上がりなど、希望を託したい新たな芽も確かにあります。しかし、それは「普通の人の排外主義」を現実に変えていくところにまでまだ至っていないという現状認識をすることは、現状肯定だと否定されるべきではなく、むしろ私たちに強く求められるところではないでしょうか。この認識の上で上野さんは当初の新聞インタビュー記事では、「絶望」というか、悲観的な見方を表明されたのだろうと思いますが(これは私の勝手な想像ですが)、しかしこの間の一連の力強い発言に、あきらめるのはまだ早い、と思い直されたのではないでしょうか。

数十年まで、日本では、高齢者は嫁が介護するもの、という常識が根深く、女性たちを苦しめていました。その常識は、介護保険の導入でかなり変わりました(十分なものでは決してなく、それどころか改悪されようとしていることはとりあえず措いて、ですが)。これは、介護保険がいきなり上から降ってきて変わったのではなく、そこに至るまでには、女性たちの声、高齢化の人口圧、福祉セクターと厚生官僚のネゴシエーション、高齢者の票を取り込みたい政治家の思い、等々さまざまな要素の積み重ねがあり、制度の実現によってさらにいっそう人々の意識も変わったはずです。
移住労働者・移民問題は、今回移住連の方々から教示いただいているようにさらに複雑な要素がからみあってくることでしょうが、しかしそれでも、「普通の人の排外主義」を変えて多様な人々が公正に生きられる社会を実現するためには、多くのことを積み重ねていかねばならない、そしてそれは可能なのだ、という、前例(決して十分ではないとしても)のようにも思えます。

もう一点、今回の議論で言及されていなかったように思えることがあります。それは、移民や移住労働者の権利保障の一方で、「移動しなくともよい」世界を目指す方向性も重要ではないかということです。
たまたま生まれ落ちたところに拘束されるのは不条理、国家システム・国境そのものを取り払っていくビジョンを、という岡野さんが示された議論はとても魅力的ですが(それがどのように実現され得るか、そこで「市民権」はいかに保障されうるかなどの構想をぜひ伺いたいです)、しかし、移動の自由が保障される一方で、人には、生まれ育ったコミュニティに安心安全のうちに留まる権利、ということも保障されるべきでしょう。
この点で、現在の世界には植民地主義・帝国主義に由来する配分の不公正がある、だから移民によって分配の公正を、という考え方は、理解できますし現時点で必要なことだとは思いますが、中長期的に見てベストな道とは思えません。多くの人は、元の社会での困難の中で自身や家族を食べさせるため、教育を受けさせるために、しばしばその人のケアを必要としている子供や家族を残して移動しています。こうした「選択」が移住労働の背後にはありがちなことを思えば、個々人に配分を求めて移動の道を選ばせるよりも、非常に困難なことは言うまでもないですが、世界の富の配分の不平等を変えること、今貧しい地域に産業や仕事を創り出し富の偏在を改めていくことの方が、より重要ではないでしょうか。人には移動の自由もあってしかるべきですが、能力をより適した社会で開花させるため・新たな挑戦がしたいから、などの真に自由で積極的な理由でなければ、生まれ育ったコミュニティから、「移動しなくてよい」ことも、人権に含まれるはずです。「まったく自由な移動」と「余儀なくされる移動」とが完全に二分されると考えているわけではありませんが、その上でも言えることだと思います。
この点で、移住者の権利の実現という差し迫った課題の実現と、中長期的なビジョンで世界を変えていく両にらみがどうしても必要だと思います。

以上の2点のいずれも、上野さんはじめ皆さん、議論に参加されている方は当然お考えのこととは思いますが、しかし、直接の論点としては出てきていなかったので、あえて記す次第です。