通常、レジュメでは対象文献の突っ込みどころを探す。自分が説得されない部分、納得できない部分から切り込み、蟻の一穴、その理論を崩していこうと試みる。「権威を疑え」と。しかし、この文献に限って、今回はそれを断念せざるを得ない。殆ど説得され尽くして、感動すら覚えてしまった次第。私にとって、初めてのことである。
 本書は、高齢の親を介護する男性=息子介護者の経験に焦点を当て、丁寧な聞き取りから『男性が「息子である」とはどのようなものか』、また『どのような存在として理解されているか』を検討し、説明可能性:accountabilityという(私にとって)斬新な手法と卓抜な洞察力、そして緻密に理論を重ねていくことで息子介護の裏に潜む「男性性」を「依存」を手がかりに見事にあぶり出したものである。本書は「これを素通りしては男性学について語れない」、という画期的なものとして記憶されることになるだろう。

   偶然にも著者と同じ(男は下駄を履いている、と男が書くなんて本当に驚き)だが、前々から男性に対しては「男ってだけで下駄を履かせてもらってて!!」という怒りが私の中にはあった。実際の生活の中では「この程度…違和感満載…どうしようもないヤツ…」と私が感じてきた「男性」性を、本書は「男らしさ」というありきたりの言葉を用いず、男性が普通にしている行為やそうあるべきだと思いこんでいる前提、それを説明可能にする実践を通して迫っていく。行為の原因を探るのではなく、行為の理解のされ方を探っていく。「男だから」が原因ではない、と男の「人間宣言」?をしたのだと思う。
著者にとって「男らしさ」とは、「依存をいかに依存として見せずにすむか」のプロジェクトだ。先に著した『迫りくる「息子介護」の時代』からさらに「男性というもの」について深く分け入り、女性までを納得させる研究成果となった。これまで無かった「胸のすく男性学」と言うことができよう。

(1)「息子介護」は「オレ様介護」
本書に出てきた「ミニマム・ケア」、「親の自立・主体性を尊重するために必要なケアを親に判断させ、自分は必要最低限のケアしか行わない」…というのは、ケアの主体を親だと認識していないからではないだろうか。親はケアを必要としている、そしてどんなケアが自分に必要なのかを、もはや判断できる状態には無い。「必要な人にとってのケア」ではなく「オレ様が手配するケア」で、自分本位の「オレ様介護」である。介護のイニシアティブは息子が握り、ケアマネさんからの様々な提案にも余り耳を貸さないように見える。そして「世話になっている」母親は、ケア当事者であるにもかかわらず肩身が狭くて何も要求できない…。

 一昨年亡くなった父は、三年間介護を受けていた。私はケアマネさんとの打合せと病院診察の付き添いが殆どで、実際のケアはヘルパーさんと母、訪問看護、訪問診療でやっていた。当初、教員をしてきた余り社交的ではない父にはデイはなじまないだろう…と考えていたが、「それでは(ずーっと二人きりになる)お母さんが大変だから」というケアマネさんの薦めで試しにデイに行き始めたところいたく気に入り、週1で始めたのが暫くすると週2から週3になり、かなり体調が良くない時にも行きたがった。人間、変わるものだ。私は父のことを良く分かっていなかったのかも…と反省した。さすがプロ、薦めてくれたケアマネさんには感謝している。

 息子が親の介護を「世話になったから」と互酬性で語るのも、シンプルに「そこに介護を必要としている親がいるから」ではない。施設入所を考えて「自分の義務は親にとって質の良い介護を受けさせてあげること」と言うのも、息子自身の勝手な思い込みだけで、親が何を望んでいるのかは考えていないし確認もしていない。自分が「親としての責任を果たすために」親を施設に入れることにしたと語る息子も、自分の子どもが部屋にこもり気味になった原因が認知症の親の行動なのかどうかを確かめた訳ではない。子どもの直感は、鋭い。親の背中はしっかり見ている…ということに気付いているのだろうか。

(2)sentient activityジェニファー・メイソン「感覚的活動」…(お膳立て)段取り、算段…
本書の功績の一つは、介護における「お膳立て」(マネイジメント)という概念、女性たちが「現実に経験してきたことに、的確な言葉を与え」岡野P276たものを紹介したことである。ケアが受け手の満足を得て「ケア」として機能するためには、マネイジメントが不可欠である。しかし、息子をはじめ長いことケアを担わされてきた女性たちでさえ、そのことには無自覚だった。余りにも家事や子育てなどのケアが不可視化され、貶められてきたからであり、女性たち自身が家事や子育てをこなしていくうちに必要に迫られて殆ど身体化してしまった行為だからである。
本書に登場する息子介護者たちは、姉妹がいる場合には自分の介護が姉妹のマネイジメントのお陰でケアとして機能していることに無自覚であり、独りでケアを担っている息子はタスクとしてのケアは訓練によって上達していくと考えても、マネイジメントには考えが及ばず、その存在はまったく見えていない。家事・子育てという、生活を支え、依存する存在をケアし続けてきた女性たちがその中で何をやり、何を考えてきたか…どれほどたくさんのものをケアから学びとってきたか…にはもちろん考えが及ばない。自分たちはそれをやらずに来てしまった、のだから。
「母親業とは…子どもの生命を維持すること・成長を促すこと・子が世界に受け入れられるように社会化することを目的としている…母親は刻々と変化していく子が突きつける様々な要求に翻弄され、自問と試行錯誤を繰り返しながら、何をしなければならないのかを「考える」のである。」岡野P213
本書では「母親は、本人も殆ど無意識のうちに、記憶や過去の経験を総動員しながら、複数の思考を同時進行で行っている」P55「彼女たちがそれぞれの相手に対して感知と思考を駆使しつつ、つまり、「感覚的活動」に従事しながら、それぞれの相手と個別的にケアの関係を築く、という営みを、生涯を通じて繰り返しているのだ」P65と書かれている。感動、である。ケアについてこんな記載をしている男の書き手を、私は知らない。

(3)自助グループ
 私は現在、DV被害母子に対する心のケアとしてNPO法人女性ネットSaya-Sayaが開発した心理教育プログラム「びーらぶ」に係わっている。参加した母親たちに暴力についての情報提供、自尊心回復のための肯定的な経験、アサーティブなコミュニケーションスキルなどについてお伝えしているが、彼女たちはプログラム終了時に「私一人ではなかったんですね」と口にすることがとても多い。お喋りも経験のシェアもない場なのだが、彼女たちはDV被害に遭ったのが自分一人ではないという事実・場を経験してエンパワーされている。そしてもう一言「私の選択(避難や離婚)は間違っていなかったんですね」と実感を込めてつぶやく。女性たちには成り立つ「自助グループ」の場は、本書で見るように男性には成り立たない。経験を共有できるはずの仲間が「男らしさの競演」の聴衆となり、「自助グループでの語り」が「達成の自己申告」「強さの自己提示」になってしまうという逆転は、おそらく男性にしか起こらない。どこまでいっても、男には「弱さの自己開示」はできそうに無い。自己の経験や感情について語る言葉を、男は持たないのである。実に、お気の毒なことだ。
 印象的な友人の言葉がある。友人は乳ガンを患い、自分で探し求めた温存手術を受けた。術後病院に行くと、放射線治療のためにガウンを着た女性同士 待合室でのお喋りが始まる。その中に、告知を受けてこれから手術…という女性がいる。不安の中、術後とおぼしき女性に質問が出る。すると多くの先輩女性たちがガウンをめくり「ほら、こんな感じ。全然分からないでしょ?大丈夫よ!!」となるのだとか。エールの交換、エンパワーのシェアである。そして友人が言ったのは「ねっ、男には考えられないよね。男は絶対、こんなコトしないよね」だった。確かに。
 私が入院した時、ストレッチャーで手術室に向かう仲間を病室のみんなで励ましながら廊下まで見送ったが、看護師さんはその光景にいたく感動していた。恐らく、男の入院患者たちはそんなことはしないのだろう。私が洗濯中に洗濯室で会った年配女性(恐らく、入院している夫の付き添い)の言葉も忘れられない。「そうなのよね、女は(自分が患者でも)ちゃんと、自分でやるのよね」

(4)高齢者虐待とDV
 本書の功績の一つは、高齢者に対する息子の虐待をDVを射程に入れて検討したことである。この視点は、「男と暴力」を考える上で多くの示唆を与えてくれる。息子から母への虐待を、厳密に「男性から女性への暴力」と再定義したのである。本書はここで、「男性性と暴力」「息子による親への暴力」が自然に見えるための「前提」を問う。
 男が妻や子ども、そして高齢者に向けて暴力を振るうのは、時と場所、相手を選んで恣意的に行っている行動である。「こいつは殴っても良い人間なのだ、これは許される行為なのだ」と。
 「男」だから、ではない。自分より弱いものに対して、圧倒的な優位に立ってパワーとコントロールで相手を蹂躙しないと自分を保てないからである。男が「正当である」と考える前提とは『私的領域における「男らしさ」』、私的領域における男の受動性なのだ、と本書は解き明かす。この、自分が振るう暴力と支配を、一体どれだけの男が自覚しているのだろう。
「母親たちは、子どもたちとともに、その間で、非暴力的な生き方を創造しようと格闘している。彼女たちは、憤慨、疲労困憊、さらに突然攻撃的になったり無抵抗になったりしそうな様々な誘因にもかかわらず、暴力的なコントロールというやり方を否定しながら」Ruddick1898
ケアは「時に他者からの否応ない呼びかけによって自己が翻弄され、時に圧倒的に弱い他者を圧殺してしまいそうな誘惑にかられつつ、だからこそ強い倫理が課せられた実践である」岡野P275
このように書かれている「女性たちがこれまでしてきたこと」と男のそれとの対比は、鮮やかである。岡野が引用した「ケアとは非暴力の実践である」は、至言だ。
   そしてもし、男が(母親から分離できずに)母親と妻を同一視しているとするなら(私は常々、この同一視を疑っているが)、高齢者虐待とDVはピタリと重なる。

(5)「自立と自律」
 本書の中には「自立・自律した主体」としての男性が何度も出てくる。この「自立・自律した主体」というのが、どうもしっくり来ない。何度考えても理解できない。それが何故なのか…暫くして気づいた。「自立・自律した主体」としての男など、私の周りで見たことが無いからである。
 調べてみると、それは近代のリベラリズムが(公私二元論を説明するための)前提としているもの、らしい。が、それでも分からない。思い余って確認したところ「実体を否定するための、理想論」との明快な説明を戴いた。あくまでも理想であって、現実ではない…では何故、実体を否定したありもしないものを前提とするのだろう??証明のための公式や定理は正しいから使うし、正しいからこそ命題を論証できるのである。理論を導くために実体を否定した理想(正しいか正しくないかは、不問)を持ってきて、一体何が導かれるというのだろう…意味不明である。
 しかも、この「自立」には「経済的に」という但し書きがつく。自身の生活の後始末、生活の自立は思慮の外であるが、これまで誰もそのことに疑問を持たずに来たらしい。男たちは私的領域で女性にまったき依存していることを否認し、ただただ受動的であり続けてきたのに…である。このどこに「自立と自律」があるのだろう?岡野は『公的領域における自立的主体が、私的領域における原初の依存という来歴を忘却することによって可能になる「フィクションである」』と言い、バトラーは「自律とは否認された依存の論理的帰結である」として自立的主体を幻想だと批判してきた。
 これまで常に既に行われている依存をなかったこと(消えているのは、男の意識の中だけ!!)にしてありもしない自立と自律を志向することに、一体何の意味があるというのだろう。弱さを抱えて依存を必要としている人の、どこが恥ずかしい?
 男は「依存すること」にこだわり、幼い頃の母への依存、現在の妻(その他モロモロ)への依存を無かったことにしたいらしい。しかしそのことで逆に、今自分に依存している弱者たちを自分と同じ立場(だった)者として見ることができない。あってはならない依存をする者として、まったき依存のない自分が管理監督しなければならない存在として様々な暴力を使って支配し始める。そして、他者と認めること・自分とは違う人格を持った人間と認識できないことで、平気で相手の自尊心を踏みつけにする…自分の外に他者はいない…だから「オレ様」であり、救いようのない「自己チュー」が誕生してしまうのである。「男というビョーキ」の始まりである。
この欺瞞的「自立・自律」の概念は、それが虚構であることだけではなくケア労働のジェンダー不平等を不可視化する、と本書は指摘する。リベラリズムの前提って一体???…

(6)男の生き辛さ?
 これまでの男性学には、私は何の魅力も感じていなかった。生ぬるいと思ったし気持ちが悪かった。「男の生き辛さ」という文言もウソ臭く、上から目線の戯言にしか聞こえなかった。「どーぞ、ご勝手に」である。
 本書では『既存の男性学に欠落していたのは「自立と自律のフィクション」に対する批判的検討』と明確に宣言し、男性たち自身による「非依存」を前提とする男性性の志向が男性優位のジェンダー関係に与える効果についての内証的思考が殆どなされていないことを痛烈に批判している。
そして「生の基盤」という概念を用い、女性にとって人間として必要な「生の基盤」が構造的に制限されることは「生き辛さ」ではあっても、男性のそれは似て非なるものー男女の経験の非対称―と糾弾しているのである。こんなに胸の空く男性論が、今まであっただろうか。「男の生き辛さ」なんて、「下駄を履かせてもらってて、なに贅沢言ってんだっ!!」である。
 稼得役割に固執すること、妻を専業主婦にしておく(妻に就労させない)ことは、立派に「経済的DV」なのである。

 本書が世に出たからには、もはや「男の生き辛さ」なんぞを悠長に考えている場合では無い。女たちは「ケアの倫理」から、誰もが持つ自身の抱えるさまざまな弱さゆえに差別抑圧されることの無い・暴力の無い社会の構築を目指しているのだ。
自分が依存的存在であることを忘却の中から掘り起こし、暴力や支配と決別し、自立と自律のウソを自らの手で解体していかない限り、男たちに明日は無い。ようやく、「男というビョーキ」に「つける薬」が見つかったのだから。


参考文献
1.迫りくる「息子介護」の時代    平山 亮 光文社 2014
2.女ぎらい――ニッポンのミソジニー  上野千鶴子 紀伊國屋書店 2010
3.フェミニズムの政治学       岡野八代 みすず書房 2012