ずしりと重い女の本を、息もつかせず一気に読み終えた。
『あごら 雑誌でつないだフェミニズム』全Ⅲ巻(あごら九州編 石風社 2016年12月)。
『古都の占領 生活史からみる京都 1945-1952』(西川祐子 平凡社 2017年8月)。
 2冊目はWAN女の本屋「わたしのイチオシ」に荻野美穂さんが紹介されている。
https://wan.or.jp/article/show/7469

『あごら』は1972年2月創刊。40年を経て2012年7月、「どうやら、ひと休みする時期が来たようです」と休刊のお知らせの後、2012年9月、335号で最終号を迎えた。その4年後、「あごら九州」の福田光子さんら3人の編集で『あごら 雑誌でつないだフェミニズム』全Ⅲ巻が出る。主筆の斉藤千代さんの600を超える原稿から82編をⅠ、Ⅱ巻に再掲。Ⅲ巻は40年の『あごら』の歩みを、揺るがぬ編集方針と「仕事の流儀」を軸にまとめられている。

 斉藤千代さんは1925年、台湾生まれ。母と同世代だ。1942年、東京女子高等師範入学。1946年、初めて女子に門戸を開いた東京大学へ入学・卒業。結婚、出産後、1962年、「女による女の会社」BOC(バンク・オブ・クリエイティビティ)を起業。企画・編集・翻訳、各種プランニング、調査、取材・撮影・編集、デザイン、レイアウトなど女性が担う専門集団をつくる。そして1972年、雑誌『あごら』を創刊。

 時、まさにウーマン・リブの時代。1970年のリブ集会と71年のリブ合宿。70年代前半、久野綾子主宰『おんなの叛逆』、飯島愛子・舟本恵美らの『女・エロス』、70年代後半、田中喜美子『わいふ』、松井やより『アジアと女性解放』、82年、半田たつ子『新しい家庭科We』の発行など、草の根の女たちの主張と闘いが日本全国へ大きく、深く、広がっていった。

 その時の女たちのうねりを記録した『資料 日本ウーマン・リブ史』全Ⅲ巻(1969~1982年 編/溝口明代・佐伯洋子・三木草子。発行/中西豊子・松香堂書店 1992~95年刊行)は、散逸してしまいかねないビラ一枚一枚を集めて編んだ貴重な本だ。私も編集にかかわらせてもらったことに心から感謝する。日本初の女の本屋を開いた中西豊子さんは、さらに女性の企画会社フェミネット企画を立ち上げる。BOCを始めた斉藤さんと同じく、女性問題のコンペの入札で電通など男の企画会社に競り勝ち、女性が主体の大イベントを成功させたことも楽しい思い出の一つ。

 そして今はウェブの時代。2009年、女たちはNPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)を立ち上げた。女の情報をウェブに載せ、すべてアーカイブ化できるようになった。今、WAN「ミニコミ図書館」に電子データ化された女の情報一つひとつを、いつ、どこからでもアクセスして見ることができる。『あごら』も『資料 日本ウーマン・リブ史』も多くのミニコミ誌も、半永久的にウェブ上に保存されている。それを支えるWANスタッフの一人ひとりのお顔がアクセスするたびに目に浮かぶ。 ぜひWANミニコミ図書館へどうぞ。
https://wan.or.jp/dwan

 『あごら』創刊号のテーマは「女が働くこと」。21世紀の今なお女にとっての難問だ。斉藤さんは自分の目で見るために現地へゆく。1975年の国際婦人年世界会議(メキシコ会議)でベティ・フリーダンの「女にとって権利は力なり、力は権利なり」の演説を聞き、1980年、コペンハーゲンのNGO会議で「平等とは共にあること、戦争はその正反対にある」と確信し、「女と戦争」を終生のテーマとしていく。

 1991年1月17日、湾岸戦争勃発直後、アジア太平洋資料センター(PARC)の呼びかけでイラクへ出発。そこで見た現実を『見えない戦争――私が訪ねたイラク・パレスチナ・イスラエル』に著わす。2001年9・11直後に書いた原稿が新鮮だ。「たしかに実行犯の中には、イスラーム原理主義の信奉者もいただろう。しかし、あれほど精密で非凡なテロが、彼らだけの力でできるはずがない、とイスラーム世界をよく知る人びとは口を揃える。「報復」に走る前に、もっと慎重に、もっと綿密に、真犯人探しをしてほしかったと、残念でならない」。湾岸戦争時、サニタリー・ウォー(衛生的な戦争)を口実にピンポイント爆撃をしたアメリカ。「そのような人を殺すことにひとかけらの痛みもない凶悪な発想に、日本は決して加担してはならない」と記している(『あごら』270号/2001年10月)。

 そしてもう一冊の『古都の占領』も、500頁と分厚い。本書の紹介はWAN「わたしのイチオシ」に譲って個人的な思い出のみ触れておく。

 1945年9月25日、アメリカ占領軍は京都駅広場に進駐し、四条烏丸の大建ビルに司令本部を置く。現、COCON KARASUMAのビルだ。「あのモダンな丸紅本社ビルを進駐軍が接収したのよ。くやしいわね」と語ってくれた人がいた。上海租界から娘を連れて引き揚げた後、京都市初の女性係長になった人だったけど、数年前、90代で亡くなられた。

 御所に面する大丸ヴィラは、京都大丸の元社長下村家の住まい。ウィリアム・ヴォーリス設計、チューダー様式の森の中の洋館も、進駐軍司令官クルーガー大将宿舎として接収された。もう亡くなられた下村社長が中折れ帽をひょいと被り、三つ編みの長い髪型がおしゃれな妻と、すぐ近くの喫茶店「アスカ」にきておられたのをよくお見かけした。黒猫とちょっと気難しい女主人がいた「アスカ」も、今は店じまいしたようだ。修学院の別荘を接収された友人の家も、返ってきてみると、石造りの庭と灯籠が緑の芝生にすっかり様変わりしていたという。

 1945年9月22日、GHQは京都府庁舎を終戦連絡事務所京都委員会の拠点とし、1947年10月、戦後教育改革を開始する。小学区制、男女共学、総合制の「高校3原則」を京都市は戦後ずっと続けてきたが、1982年、「小学区制廃止」と「家庭科男女共修廃止」に動きだした教育委員会に抗して、京都の女たちで押しかけたのも35年前のこと。

 西川さんは10年間に80人以上の聞き取りを行い、その裏付けに京都府立京都学・歴彩館所蔵文書や京都府行政文書ほか、膨大な資料を駆使する。戦後の「街娼」の実態調査を行った研究者への女の視点からの疑問や問いかけ、当事者の声を真摯に聴く姿勢に、息を飲む思いで読み進める。全編に貫徹する「日常生活にこだわる質問の仕方」。その中から聞こえてくる人々の声は、「勝つ思想ではなく、負けるという思想。戦争をたたかわない思想」だったという。「生活史は個人の語り、日付のある文章、文学、地図に注目すること」。女の目で見たもの、聞いたことを、「時間」を記す日付のある文章で確認し、地図という「空間」に落としこんでいく作業は、ほんとに見事だ。

 「死ぬな、殺すな、生きのびよ」を18歳への贈る言葉にして、ここにいったん、筆をおきたいと西川さんは結ぶ。「目に見える戦争」は今もなお世界で絶えることがない。「目に見えぬ戦争」、この生きにくい世を生きる若い人々に、「この続きを書いてくださるなら、うれしいです」との思いを託して。