かつて「幻の」と言われた作家・尾崎翠(1896-1971)の文章には、独特の世界観がある。彼女は、日本の自然主義文学を痛烈に批判し、感覚やイメージ、感情や心持ち(彼女の言葉を借りていえば、「頭で濾過した心臓」)がつかむ世界を大切にした。それらを平易な言葉に乗せて表現し、独自の感性とユーモア感覚あふれる、ファンタジックな作品をいくつも世に送りだしている。しかし、20代から30代にかけて意欲的に創作した時期には名声を得ず、37歳で出版された小説『第七官界彷徨』以降、ほぼ筆を置き、文壇から姿を消した。時を経て戦後ようやく、彼女が表現してきた世界に光が当たり始める。そして、今にいたるまで、多くの研究者や専門家らによって作品が再評価され、愛読者を増やし続けてきた作家でもある。

1970年に監督デビューし、30年以上にわたり300本ものピンク映画を撮り続けてきた浜野佐知監督が、初めて一般映画に取り組み、1998年に自主制作で完成させた『第七官界彷徨 尾崎翠を探して』も、尾崎翠の作品や人となりに大きくスポットを当てるきっかけとなった作品だと言って良い。制作にあたっては、浜野監督の予想をはるかに上回る多くの女性たちが協力者として手を挙げ、サポートに奔走した。尾崎翠の出身地、鳥取県岩美町も町をあげて応援されたそうだ(浜野監督の著書『女が映画を作るとき』より)。映画の完成のあと、鳥取県ではこの映画の再上映をきっかけとして市民有志で実行委員会が立ち上がり、2001年から毎年『尾崎翠フォーラム・in・鳥取』が開かれていった。その成果は『尾崎翠を読む』全3巻に結実し、2016年には生誕120年を祝う会も催されている。尾崎翠は、「映画漫想」という映画時評を連載していた時期もあるほど映画が好きで、自分の書いた作品をいつか映画にして欲しいと望んでいた。浜野監督の彼女との出会いには、きっと彼女も、空の上で喜んでいるのではないだろうか。


――よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあひだに私はひとつの恋をしたやうである。――

尾崎翠の代表作と言われる小説『第七官界彷徨』は、こんな書き出しで始まっていく。恋愛をする蘚(こけ)が登場したり、主人公の「女の子」が、人間の五官(目・耳・鼻・舌・皮膚)の先をゆく第七官をつかもうと<漫想>したりと、彼女の「らしさ」が、のびやかな言葉の中に感じられる作品だ。この作品が生まれたのは1933年(昭和8年)。日本が満州国を建国し、ふたたび、徐々に戦争への歩みを進めていった時代に重なる。そんな不穏な時代に、こんなに我が道をゆく、個性豊かな文章を遺した人はどんな女性だったのだろう――。

映画では、尾崎翠という作家の人生が、彼女の書いた小説『第七官界彷徨』の世界を織り込みながら、走馬灯をゆっくりと反回転させるように辿られていく。『第七官界彷徨』の曰く言い難い世界を、柳愛里(小野町子役)や宝井誠明(佐田三五郎役)、内海桂子(町子の祖母役)らキャストが皆、それぞれに上手く表現していて面白い。人生の時間を遡っていくという斬新な脚本のせいで、尾崎翠の世界を、時空を超えて彷徨っているような、見終わって不思議な感慨を覚える作品だ。わたしは、尾崎翠を演じる白石加代子が、スコットランド民謡の「Comin' Thro' the Rye(故郷の空)」をうたった2度目のシーンで涙ぐんでしまった。文章を創作することと、暮らしを紡ぐことが等価に描かれていて心に響く。下記に、映画でもなぞられる尾崎翠の略年譜を記しておく。浜野佐知監督の現在に続く軌跡をも想起させられて、興味深い。(中村奈津子)

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尾崎翠(白石加代子)は1896年(明治29年)、鳥取県岩美郡(現・岩見温泉)生まれ。12歳で父親を亡くし、鳥取高等女学校を卒業後、尋常小学校の代用教員となる。そのころから雑誌に投稿を始め、入選を重ねるようになった。

22歳で日本女子大学国文科に入学(同級に村山リウ、英文科上級に中条百合子、湯浅芳子、網野菊らが在学していた)。寮で同室となった5歳年下の松下文子(吉行和子)とはこの後、生涯親しく付きあうこととなる。23歳のとき、デビュー作「無風帯から」が『新潮』に掲載されるが、大学がそれを問題視し、翠は退学。鳥取の母の家へ戻ったあと、東京の松下文子の家と往復をしながら文章を書くことに専念した。

30歳になると、東京の借家で松下文子と同居を始める。このころ、無名時代の林芙美子(宮下順子)とも交流があった。しかし、親しかった文子が親の薦めによって結婚。ひとりになった翠は精力的に執筆をするが、徐々に、頭痛薬ミグレニンの中毒によって精神を病んでいく。高橋丈雄(原田大二郎)との恋愛も長く続かず、療養のため兄に連れられて帰郷したのは36歳のときであった。

すでに書き進めていた『第七官界彷徨』が出版されたのは翌年、翠が37歳のときである。彼女はこれ以降、本格的な創作に戻ることはなかった。妹の死後、3人の子どもたちの親がわりとなって彼らを養育し、老人ホームや妹・早川薫(白川和子)宅に同居するなど居を移しつつ、故郷島根で骨をうずめている。享年75。尾崎翠の作品が再発見され始めるのは戦後、昭和30年代に入ってからのことであった。
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-キャスト-
【尾崎翠を探して】
白石加代子 吉行和子 原田大二郎 宮下順子 白川和子 横山通代
石川真希 下元史朗 中満誠治 沢村一間 本城美佐子 前田翠
【第七官界彷徨】
柳愛里 宝井誠明 野村良介 井筒森介 佐藤一平 外波山文明
吉行由美 丸山明日果 野上正義 内海桂子(特別出演)

-原作-
尾崎翠『第七官界彷徨』(尾崎翠全集・創樹社刊)

-製作-
株式会社 旦々舎/『第七官界彷徨-尾崎翠を探して』製作委員会
企画:鈴木佐知子 脚本:山崎邦紀 撮影:田中譲二
照明:上妻敏厚 美術:奥津徹夫 デザイン:星埜恵子
録音:小関孝 整音:杉山篤 音楽:吉岡しげ美
編集:門司康子 助監督:坂口慎一郎 製作:松岡誠
ヘアメイク:小林照子 大川大作 馬場明子
デザイン:藍野純治 スチール:岡崎一隆

-製作協力-
鳥取県/鳥取県岩美町/倉吉市
映画『第七官界彷徨-尾崎翠を探して』を支援する会(東京・鳥取)

-助成-
日本芸術文化振興基金助成事業
(財)東京女性財団助成作品

現在、浜野佐知監督は新作映画『雪子さんの足音』の制作に取りかかっています!(WANでの紹介記事はこちら)。この作品へのご支援も、引き続きよろしくお願いいたします。