2016年に高良留美子さんから引き継いだ「女性文化賞」を、昨年11月第23回として北海道旭川市にお住いの高橋三枝子さんにさし上げました。そのきっかけは、ミニコミ図書館だったことをご報告したいと思います。
高橋三枝子さんは北海道女性史研究の草分け的存在で、わたしにとっては「大先輩」です。1981年に第2回全国女性史研究交流のつどいが旭川で開催されたのは、1970年代から北海道女性史研究会を主宰してこられた高橋さんが中心になったからでした。「つどい」が1977年に初めて名古屋で開かれたあと、次の開催を引き受けるところがなかなか見つからず、高橋さんたちの決断がなかったら、「つどい」は一回で終わっていたかもしれません。
というのは、この集まりは全国組織があるわけではなく、在野の地域女性史研究会やサークルが「今度はうちで」と名乗りを上げて実行委員会を結成、テーマや日程を決めて発表すると全国から参加者が集まってくるという方式だったからです。高橋さんは「第1回の次はどこがやるかと待っていたけれどどこからも声が出なかった」のを惜しみ,「それなら自分たちで」と手を挙げたと語っていました。その方式で時には数年も間が空いた時もありながら2015年までの間に全国各地で12回開かれました。
ミニコミ図書館は、はじめ1970年代に日本で花開いたウーマンリブの運動が残したミニコミ誌や記録の散逸を惜しむところから資料の収集とアーカイブ化と公開に取り組んだそうですが、やがて同時代にひろがった地域女性史の取り組みにも目を向けるようになりました。わたしがかかわるようになったのは、そういう経過もあったからです。そこで「全国女性史研究交流のつどい」の報告書を全部収蔵、デジタル化して公開しようという計画を引き受けることになりました。
12回といっても一つの組織があったわけではないので、収蔵の許可を得るにはそれぞれの地域女性史関係者に連絡しなくてはなりません。すべての旧実行委員の方を探し出し、どうすれば公開できるかを話し合い、許可を求める作業を1年以上かかって取り組みました。高橋さんに連絡を取ったのは、その時です。高橋さんとは1981年に旭川でお会いして以来、「つどい」でも何回かお目にかかていましたが、ここ10年以上交流がなく、在京の関係者に聞いてもわからず、思い切って報告書に記載してあった30数年前の連絡先に電話して、ご消息が分かったのです。
電話と手紙の交換を重ね、ご了解をいただいて「承諾書」にサインを、書類を送りましたがなかなかお返事がきません。わたしはエイとばかり旭川まで行くことにしました。じつは航空会社のマイルがたまり、国内なら無料で行ける権利を獲得していたので、「どうせ行くなら遠くまで行こう」と思ったのがホンネでしたが。
このやりとりのなかで、高橋さんの近況がわかりました。開拓民や屯田兵、小作農民、アイヌなど、北海道の大地に根を下ろして生きた女たちの歴史を次々に掘り起こし、『北海道の女たち』(1976) 『小作争議の中の女たち―蜂須賀農場の記録』(1978) 『戦争と女たち』「1983) 『大地に刻んだ青春-北海道を拓いた女たち』(1985)などを世に出して北海道女性史研究の開拓者となった高橋さんは、1972年創刊の『北海道女性史研究』が2004年39号で終刊した後も旺盛な執筆活動をされ、そのまなざしは自身が生まれた朝鮮の記憶とともに今問われている「日本軍慰安婦」にむけられ、2015年共著『文殊の智恵』を刊行、さらに2018年には、あまりにも知られていない沖縄戦の悲惨な体験と今も基地に苦しめられる現状を伝えるべく、歌集『沖縄いまも戦場(いくさば)』を出版して「北に住み戦禍のがれし者なればせめて書き残さんか沖縄戦を」とうたいます。昨年夏には旭川で講演会も開催、96歳の輝きを見せておられます。
その視野の広さと、歴史の中で苦しみを負う女性たちへの共感のまなざし、老いてやむことのない発信の力に、わたしは大先輩に失礼ではないかと思いつつ、女性文化賞をさし上げたい、と申し出てしまいました。これが第23回女性文化賞のてんまつです。なお、「女性史のつどい」報告書は、全12回のうちすでに出版済みの第7回を除き、ミニコミ図書館にデジタルアップする準備が進んでいます。アップできた時にはその意義について述べたいと思いますが、まずは「ミニコミ図書館の縁で女性文化賞」の報告をさせていただきました。