近くの京都・烏丸御池「新風館」地下1階に6月11日、オープンした「アップリンク京都」へ、「アンティークの祝祭」を見に行く。

 フランスの、とある村の古い邸宅に、アンティークに囲まれ、一人暮らしをする老婦人クレール・ダーリング(カトリーヌ・ドヌーヴ)。タバコをくゆらせつつ、強い意思の眼差しと、凛として屹立するカトリーヌ・ドヌーヴに、いつもながらほれぼれとする。憧れのカトリーヌ・ドヌーヴは私と同い年。

 彼女はある日、「今日が私の最期の日」と確信する。歳を重ね、記憶もまだらになり、現実と幻想の境界も曖昧になったことを悟り、骨董品の数々を庭に並べ、「過去」を清算しようとガレージセールを始める。捨てきれなかった過去の葛藤と罪責感からの解放のために。

 経営する採石場の爆破事故で亡くした息子と、それをめぐる夫との葛藤、夫の死をきっかけに破綻してしまった娘との関係。「時」を遡りつつ、一枚一枚、ベールを剥がすように彼女の過去が描かれてゆく。

 ブルボン朝ルイ15世時代の置き時計。18世紀のブロンズ製の象が首を揺らして時を告げるカラクリ時計。エキゾチックな東洋の品々からティファニーのランプ、バカラのオールドグラスまで、見事な骨董品の一つひとつが、過去の愛憎と重なりあい、彼女の物語を構成してゆく。撮影された邸宅は女性監督ジュリー・ベルトゥチェリの祖母の家。コレクションも祖母と監督が蒐集した品々だという。

 20年ぶりに母を再訪した娘、マリー・ダーリング。母との確執を演じるキアラ・マストロヤンニが見事だ。カトリーヌ・ドヌーヴとマルチェロ・マストロヤンニとの間に生まれた実の娘との共演。ふと見せる面影がマストロヤンニにそっくり。もう一人、ドヌーヴにはロジェ・ヴァディムとの間に息子のクリスチャン・ヴァディムがいる。マストロヤンニといい、ロジェ・ヴァディムといい、あの時代のプレイボーイたちとの関係。カッコいいなあ。

 ラストは、サーカスの賑やかなカーニバルのシーン。打ち上げ花火がドーンと天に舞い上がる。病院から一人で抜け出したクレールは、自宅に戻り、お茶を飲もうとお湯を沸かしてロッキングチェアに横たわる。あっ、ガスの火が消えた。「だめだ」と思った瞬間、家は炎に包まれ、アンティークもろとも彼女は最期の日を迎える。ああ、フェデリコ・フェリーニ「8 1/2」のサーカスのシーン、マストロヤンニ演じるグイドのセリフ「人生はお祭りだ」に重なる、と思った。

 大学2回生の時、イタリア映画「8 1/2」(監督・フェデリコ・フェリーニ/主演・マルチェロ・マストロヤンニ、1963年)の映画評を大阪大学新聞に書いた。当時は学生運動の分裂前夜。豊中の待兼山にあった新聞会のボロボロの部室には、ブントの編集長をはじめ、中核、革マル、第四インターの各セクトの部員が仲良くたむろしていた。山村工作隊崩れの先輩も出入りして、厳しいお姉さまに軽くあしらわれつつ。新米の私が、ただただマストロヤンニに憧れて、わけもわからず書いた映評を、怖い、怖い編集長は、珍しく褒めてくれた。

 そういえば、マストロヤンニとソフィア・ローレン主演、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の「ひまわり」(1970年)が、近く再上映されるらしい。また見に行かなくちゃ。

 「老い」を語るのはなかなかに難しい。だって一人ひとり老いは違うんだもの。老いは、一人ひとりのものだから、かな?

 手元にある鶴見俊輔編『老いの生きかた』(筑摩書房、1988年)と、老いの発見4『老いを生きる場』(岩波書店、1987年)を再読する。もう30年以上前の本だから、執筆者たちも、この世にいない方々もいる。編者の鶴見俊輔も当時、66歳。みんな50代、60代で「老い」を書いている。

 それぞれの短編を読む。みんな、うまいなあ。だけど不思議。なぜか男の書き手より、女の書き手の文の方が、はるかに読みやすいのだ。我が身に引き寄せ、「うん、うん」と頷き、納得しながら読んでゆく。

 たとえば『老いの生きかた』から。少し惚けた老母と娘のユーモアあふれるやりとりを描く、真野さよの『黄昏記』より。高森和子の「幸せな男」は、事故で病んだ息子とその面倒をみる父親の、幸せなお話。老いに向けて、体力気力能力がまだ自分にどれくらい残っているか、「現在高」を知るのが大事という、幸田文の「現在高」などなど、なかなかに味わい深い。

 あ、幸田文で思い出した。これも大学時代、卒業を前にして、社会学の指導教授で社会人類学のレヴィ=ストロースがご専門だった先生から、「君ね、就職なんてせずに、さっさと嫁に行きなさい。それから幸田文の『父・こんなこと』を読みなさい。とてもいい文章だよ」といわれたことを。当時は「女子大生亡国論」が声高にいわれていた頃。今から思えば明らかに性差別だけど、「おかしいな」と思いつつ、一言も反論できなかったのが私のダメなところだ。


 もう一冊の『老いを生きる場』は、ダントツに西川祐子の「自立と孤独-雑誌『婦人戦線』の人びとをたずねて」が、いい。

 当時、50代の西川祐子は「婦人戦線」の女たちの足跡を追いながら、「来るべき死をみつめ、生きてきた生の意味を問うことをひきうけている人たちがいる。わたしは身近に老いた人たちを見ていたいし、自分もまた自分流に老いる場所を、どこまでも探したい」と結ぶ。そんなふうに私もまた、自分の老いを追いかけてみたいと、この頃、思う。

 「あとや先き」。どちらが先かは知るよしもない。でもまだ先にいくわけにはいかないのだ。身近に、96歳の母と93歳の叔母がいるから。

 2年前、熊本から京都へ母と叔母を迎えた。二人のために用意したマンションの同じフロアの一室に、二人で仲良く暮らしている。それぞれの熊本の家はそのままにして、「いつでも帰れるからね」と納得してもらって。私の部屋と少し離れて時間と距離を保っているのが、双方ともに心地よい。

 週2回のデイサービスと週1回の訪問看護を受け、生活リズムを崩さず、今のところ元気でいてくれる。ヘルパーさん代わりの私は、朝夕のベッドの片づけやトイレと部屋のお掃除、身の回りの世話や日常の必要品を取り揃えるくらいだけど、でも、やっぱり目を離せない。

 夕食は私の部屋へ出向いてもらい、娘と孫と女ばかりの5人で揃ってとる。娘が主になり、クックパッドを見ながら、おいしい料理をつくってくれるので助かる。夕食時、小4の孫娘が、母と叔母に、その日のできごとをおしゃべりして、二人にいい刺激を与えてくれるのが、とってもうれしい。今聞いたこともすぐ忘れてしまう二人だけど、穏やかに暮らしてくれているのは、なによりだ。

 老いは誰にも忘れずにやってくる。それも一人ひとり異なる在り方で。ならばそれを引き受けるしかないか。構えず、自然のままに。さあ、その時、「アンティークの祝祭」のクレールのように、いったい私は、どんな過去から「解放されたい」と願うのだろうと、目下、あれこれと思案中。

「アンティークの祝祭」(C) Les Films du Poisson - France 2 Cinema - Uccelli Production – Pictanovo