「つどい」第1回から43年後の執筆者


発案者はえひめ女性史サークル
 1977年8月27日、名古屋市勤労婦人センターで、愛知女性史研究会が主催する「女性史のつどい」が開催され、24都道府県159人の参加を得て、熱気冷めやらぬまま28日閉会した。地元の毎日・中日・朝日新聞と公明新聞が取材に来て、ほかに共同通信の配信記事が8新聞に掲載され、のちに女性紙誌、『歴史評論』等も報道した。
 愛知女性史研究会は会員20数人、1974年「平塚らいてう展」と講演会を名古屋市の女性団体の協力を得て開催、1975年国際婦人年を記念して『戦後愛知女性史年表』を出版した。1970年代は出版界では歴史ブームと言われ、女性史の学習は上げ潮の時代だった。私たちは「戦後愛知女性史」を書こうと言いあったが、書けない。進まない仕事に立ちすくんでいた1976年夏、歴史教育者協議会全国大会のために名古屋へ来たえひめ女性史サークルの篠崎勝さんと会員の方たちから突然ホテルに呼び出され、名古屋は地理的に日本の真ん中にあるから、全国的な女性史交流の場を設けてほしいと要請された。初の全国的女性史集会の真の発案者はえひめ女性史サークル、愛知女性史研究会にとっては「天から降ってきた難題」だったが、現状打開の期待もあり、話し合いの末、「やろうやろう」と決めた。

最初だから欲張った内容
 女性史を応援していた『歴史評論』に当時紹介されていた女性史学習組織は20ほど、女性史の本を書いていた著者も加えて35通の予備調査の手紙を出したが、研究者からの反応は弱く、地域で学ぶ団体からは、「きっと行く」の返事が返ってきた。会場を確保し、定員60人の部屋で、県外数十人の参加を予定して準備し、『朝日新聞』東京本社版8月9日に開催予告が載った。事務局長格の私宅の電話を連絡先とした失敗で、電話は鳴り続け、のちには断るのに苦労し、断っても来た人もいた。会場の名古屋市勤労婦人センターの職員の協力と会員の総力を挙げての奮闘があり、私は準備と応対に忙殺されて、本当に疲れた。
 初の集会だったので、第1部は「なぜ女性史を学び始め、学び続けているのか」、第2部は研究報告(高橋三枝子「聞き書きの中の歴史」、中島邦「近代の女子教育史をめぐって」ほか)、2日目第3部「女性史学習組織から問題提起」、午後討論「私たちはどういう女性史をめざすか」という、初歩的で欲張りな内容となった。
 「なぜ女性史を」の問いには、なぜ女だけがつらい思いをしなければならないのか、男性にわかってもらえない生きにくさがあるのか、どうして夫や行政の言うことに従順で、自分の考えをもとうとしない母親であり続けるのかなど、生き方の発見がある女性史学習が語られた。討論では、資料がないとはいえ、女性差別に無自覚な男性が書いた新聞記事などを基にして年表を作るのは、差別を是認してしまうことにならないか、議論された。また、下積みのまま社会のため家族のために働き、歴史をつくっているのに、それを自覚できない女性の代弁者になろうとも話された。地域女性史を発展させようという気迫があった。

続く集会が女性史を豊かにした
 第2回は「全国女性史研究のつどい」、第3回は「全国女性史研究交流のつどい」(以下つどい)と名称を実態に合わせ、第4回は県内に新しい女性史学習会を組織し、その総括の上に全国集会を開催した。第1回の私たちは、目の前の女性史の壁を解きほぐそうとしただけだったが、回を重ねるごとに現地見学やニュース発行など、母親運動や労働組合運動で培った能力を使って、私たちが望む女性史の内実をつくりあげようとした。
 1977年~2015年の間に12回の集会が重ねられ、「つどい」は女性史研究・学習を全国に拡大する役割も果たし、集会での報告も地域女性史・生活史に限らず、戦争と平和・基地・メディア・国際交流・政治参画・性・環境・史料など多彩になった。

今、女性史ブームはないけれど
 日本女性の社会的地位は低い。市民女性が嫌なことは嫌と、ネットや街頭で訴える力を持つようにはなったが、「なぜ女だけがつらい思いをしなければならないのか」という思いは続いている。社会を支える不可欠な労働の医療・福祉に就業するのは女性が7割、不安定な雇用・低い賃金・危険な仕事が付きまとう。行政が国民を見るときは世帯単位、はみ出す個人は安心できる生活ではない。

 女性史学習組織は高齢化・少数化の波にさらわれ、活動停止が続く。改めて女性の生き方を発見しようとするとき、その土台として「つどい」は生きかえるだろうか。

全国女性史研究交流のつどい(地域別)実行委員会
https://wan.or.jp/dwan/dantai/detail/86